303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

降伏

私が握りしめている薄汚い紙に、
私の生殺与奪の権を握られている。

乾いた笑いすら出てこないが、
その歪な様相はこの上なく滑稽だ。



78億人全員参加のマネーゲーム
「今日は皆さんにちょっと殺し合いをしてもらいます」

労働者は時間、身体、労力、その他諸々を供し、精神を擦り減らして手垢まみれの紙切れを手にする。

同時に金は金で増える。金を金で生む。
アダムとイブの時代から育まれてきた営みを考えてみても、物理的な法則を考えてみても、こんなの狂っている。

金がなければ人権はない。
人間に本質的な価値などなくて、価値があるとされる人間の価値があるとされる所以は、金になるからだ。
その能力が、才能が、特技が個性が美貌が体力が金になるから、価値があるに過ぎない。
金のない人間に、金にならない人間に価値などない。

忘れるなよ人間は動物だ。
高度な文明を築こうが弱肉強食の世界。価値のない者は淘汰される。いたってシンプル、単純明快。
金を持たなきゃ、労働力になれなきゃ、ひっそりと息絶えるだけ。

薬がなければまともに働けないのに医療費すら持ち合わせていないとしたら。出勤しようにも交通費すら持ち合わせていないとしたら。金を稼ぐためにする仕事をするための金は、どう工面すれば良いというのだろうか。

「計画性を持って使いなよ」
「自己管理くらいできないとさぁ」
「しっかり反省して心を入れ替えて」

その言葉、一生、忘れねえからな。

別に責任転嫁したいわけではない。
正当性を主張したいわけでもない。
身から出た錆。その一言で済ませられても仕方ないことくらいはわかっている。しかし、それで済ませたくはないほどのことをここまでやってきた。
わずかな弱音や甘えすらも許されないのか
情状酌量の余地すら与えてはくれないのか。
派手な暮らしなんか一度として求めていない。
足るを知った質素で慎ましい平穏な生活を望むことすら叶わないのか。
今の生活ですら贅沢だというのでしょうか。



あと残り僅かな過去を清算させてもらえさえすれば丸く収まるのに、それすらもさせてはもらえないのか。

8年前。たった20万の過ち、だったと思う。
それが数十倍になったのも理由があって。
いや、言い訳に過ぎないか。
誰にも何も理解もされず、ああ頑張った頑張った。
ようやくあと少しまで来たのに。

70万。あと少しと言えど大金。
でも、これだけあれば丸く収まる。
働いていけば安月給だろうとコツコツ積み重ねれば無謀な金額ではない。なんなら真面目に踏み外さず堅実に生きてきた同年代なら持っていると思う。
だけど遠い、遠すぎる。

携帯は止まる、家賃も滞る、催促はやまない。
薬はもう切れる。バスで20分の通勤も徒歩になる。

いまここに70万さえあれば、
過去を清算して本当の意味で新たな生活に踏み出して軌道に乗せられるのに。

色々と詰んで猛省した去年は禊の一年。
今年からは、と思った矢先。
本当の詰みとは、詰んだ先の詰み。
あと一歩及ばず。といったところか。



昔、死ぬ気がしないと言ったことがある。
それは間違いじゃないし、今もなお死ぬ気がしない。
きっと死にもしない。
縁は切れてるとはいえ親族や友人に申し訳ない。

生きる選択肢はあると言えばあるけれど、もうそれは完全にいわゆる普通の生活を捨てることでもあり、元に戻れることはまずない。
その選択を取ろうとしないことがそもそも強欲で傲慢だと言われてしまえばおしまいなんだけれども。

でも、本当に生まれて初めて自分の生死というものを強く感じたのはたしかで。
薬をもらいたくてももらえない、通勤すら困難を極め、正直ろくに食べてもいない。



資本主義社会において、金は命も同然。
命がないということは言葉通り、死である。

正直、めちゃくちゃダサいと思う。
桁違いの金を持ってる人だって腐るほどいるというのに、自分は金を持たないことによって悩んでるの、とんでもなくダサい。
実際に貧しくて死んでいる人もいるわけで、そこに関してはダサいとか思ってないのだけれど、自分のこととなればとても阿呆らしく思う。

少しくらいよこせと言いたいわけじゃない。金を持っている人はそれだけの価値がある人で、人並み外れた努力をしたり頭を使ったりした人で、その対価なのだから。
でも一泊数十万する部屋をたまにしか使わないのに一年中押えている爺さんの話などを聞いてしまうと、その二泊分で今の苦悩がすべて解決してしまうんだよなぁと阿呆らしくなる。

阿呆らしい。非常に情けない。

まだ人生長そうなものだけれど、
早くも完全に敗北者の側なんだなぁと。



裏話もなにもなのだが、
序盤は今の気持ちを少しでも楽にしたいと思い、エンタメ色強めの作品的にして俯瞰的に嗤えるように書こうとしていた。
だけどダメだった。途中からもうただの恨み節みたいになってしまった。つまらない、読み物でもない、ただの日記。
発憤図書にもならない、人様に見せるものでもない、ただの駄文。

でもここまで書いてしまったのだから、誰かの何に役立つかはわからないけれど、何かしらの何かが何かあればそれはとりあえず幸いです。

夕暮れ時の快速列車は何を乗せて走るのか。草臥れたスーツの背中、大きな紙袋をぶら下げた左腕、私の足りない脳みそ。そんな有象無象を無造作に詰め込み夜へ向かって揺れ動く。
強い西日を背に中吊り広告に目をやる。何か理由があるわけではないが、ただ漠然と、以前に見たものと比べ雰囲気ががらっと変わったように感じる。まあ無理もないか。電車で通学していたのも気付けば3年も前の話。


話し声の大きな二人組が乗車してきた。そこでイヤホンがないことに気付いた。本を忘れた、携帯の充電がない、そんなときのやるせなさをふと思い出した気がした。
まったく耳とは原始的な器官だ。目は閉じればいい、鼻は呼吸を止めればいい。なのに耳だけは手や物を使わなければ機能を制限することができない。聞きたくない声や音くらい誰にだってあるはずなのに。喧騒の中で生きざるを得ないのが現代人なのに。あまりにも前時代的過ぎるんだ。


「次は千葉、終点千葉駅です」
日がすっかり傾いた九番線のホームに降りる。その足元から這い上がってくる冷気は全身を震わせた。春の訪れを感じさせた日中の陽気は嘘だったのだろうか。不機嫌になりながら家路に急いだ。





絶対的なものはないということだけが、この世における唯一の絶対的なものだと主張している。それならば死はどう考えるのかと反論されるが、それは自分が死んだことのある奴のみ言えることだ。いま一度自らの人生を振り返り、死んだ覚えがあるならば素直に認めてやる。
暑い寒いも、美味しい不味いも、好き嫌いも、すべて相対的だ。そのもの同士の、なんとなくある基準や現状のようなものとの比較。不変の価値なんてものはない。この世は可変的で相対的なのだ。
もっとも、自らの心がそのまま世界なのだと、私は考えているわけだが。


上着の右ポケットから鍵を取り出す。そのときにオイルライターとぶつかって鳴るカチャカチャとした小気味よい金属音は悪くない。鍵穴に差し込む音も、解錠時の音も。その音には帰宅したという安堵感も含まれているのだろうね。
一人暮らしの家はなんとなく寒い。物音ひとつしない暗い部屋に煌々と光るデジタル時計の温度計は18.3℃と表示している。やはり数字ではないのだと思った。暑くても寒かったり、不味くても美味しかったり、嘘であっても本当だったり。そういうものなんだなと改めて感じた。


ベランダに出て、火をつけた煙草の煙を浮かびきっていない半端な月に吹きかけようとしてみた。あと三、四日で満月を迎えそうなその隙間を、この煙で埋めてみたら良いのではないだろうか。遠くでお高く止まっているお月様に心のなかでそう提案してみた。嗚呼くだらない。とある文豪の言葉を拝借するならば『なんとも阿呆らしいかんじ』である。
ため息のごとく吐き出した煙は左側に流れていった。いま私の左には隣家とを隔てる石塀だけが存在する。嗚呼くだらない。気付いてしまった肌寒く感じる理由もまた『なんとも阿呆らしいかんじ』である。





「掘れば掘るだけなんか出てきそう」
「温泉かなにかかい?」
「どちらかといえば石油かな」


錦糸町駅南口の喫煙所でこんな会話を聞いたのは今日が初めてだった。温泉だろうと石油だろうと掘って出てくるなら迷わず掘り進めたいのだが、これは君が私に向けて言ったことだ。つまり私を深堀りすれば面白いものが出てきそうという意味である。この場合の相場は噛めば噛むほど味が出るだろうが、噛まれて味が出るよりも掘られて石油が出てくれたほうが個人的には嬉しい気がする。感性の問題でしかないのだけれど。
アパルトヘイトを敷かれ十数枚のパネルで分けられた喫煙者の収容所。入り慣れたここが新鮮に感じられたのは左隣に君がいたからだろう。バイトに行く前の君の足をわざわざ止めニコチン摂取に付き合わせた身勝手な私は、今日の出来事を思い返しては感傷に浸っていた。そういえばさっきも身勝手に煙草を吸ってしまったな。





レトロな純喫茶に着いた。洋食屋さんから数分の散歩は食後にちょうど良かったのだが、満席で一人男性が待っていた。席が空くまで外で煙草を吸って待っていれば良いだろうと思った。強い風の中、思えばここでも左側にいる君に煙がいってしまっていたんだ。そうしているうちに二席空いたらしく、一人の男性と後から来た一組のカップルが通されてしまっていた。
「ごめんね、煙草なんて吸っていたせいで」
私に言える言葉なんてものはこれしか残されていなかった。


暖かな陽気だった。風さえなければという条件付きではあるが冬の終わりを感じられた。
もう春は近い。それを肌で感じるのも悪くないし、公園でひとりベンチに座り無感情でいたという君をいじるつもりもあり、公園に誘った。もっとも私自身、深夜の国道沿いを徘徊し、手放した愛車のことを思い出して泣きながら帰るような男だ。他人のことなど何も言えないのである。


「仕方ない、隣りに座ってやるから」
茶化して言ったが、実を言えば私がしてほしいことでもあった。季節の変わり目を共に感じることより素敵なことがこの世にあるだろうか。


二人がけのベンチには優しい陽が注ぐ。右側に座った君の視線は私の奥の地面、鳩にあった。その鳩はこの上ない阿呆面をしていた。
足るを知るということはこういうことなのだろうなと、改めて平和な日常の小さな幸せを噛み締めて思った。同時にその平和な日常というものを守るのも厳しく難しいという現実も知っている。というよりも厳しい現実があるからこそ、何もない平凡な一日が素晴らしくかけがえのない日に感じられるのかもしれない。
名前も知らない人の疲れた顔や険しい顔、私たちは互いに毎日それを見せて見せられながら生きているからこそ、こんな阿呆面の鳩を平和の象徴と呼ぶのかもしれないね。





日が陰り場所を移動したのも束の間、あっという間にサヨナラの時間になってしまい喫煙所に来たのである。掘れば石油が出そうというのは今日一日を一緒に過ごした君が抱いてくれた感情なのだから、嬉しいに決まっている。感性の問題と言ったが嘘だ。こうやって順を追って話してみれば私がいかにまともかということがわかるだろう。


同じホームから逆方向の快速電車に乗ることになる。最後まで見送れるのは良いことかもしれないけれど、名残惜しさも堪え難いほどである。どんなに名残惜しくても私にできることなんてたかが知れていて、どんなに頑張っても二つしかない。
一つは、その名残惜しい気持ちも大切に噛み締めて今日の想い出と一緒にしまっておくと決めること。
もう一つは、「また会いたい」と口にすること。


私はできる限りのことをして、夕暮れの快速電車に乗った。





煙草の火を消し部屋に戻った。さっきよりも暖かく感じられたが18.3℃のままである。もちろん外気に触れていたからその差もあるだろう。

しかしそれだけではなくて、先ほど感じた肌寒さの原因が鮮明にわかったことが何より大きいのだ。さっきまで隣に居てくれた人がいない、その差だ。

それに気付いたからこそ、今日が素晴らしい一日になったということを改めて強く感じた。想い出として私の中にたしかに残る。そしてその想いが私に寄り添う。
だからかな、いま暖かく感じられるのは。

書きかけ

定時で仕事終わるのに、帰宅がいつも23時過ぎるのはどういう了見なのか。
まあ、自分がわかってればいいことではある。


通勤のバスで毎日スマホを忙しなくフリックしてはいる。ただ、車酔いで10分少々で断念せざるを得ないのだ。
乗換検索では21分、道が混雑していれば約30分の絶妙な空き時間であるゆえに勿体ないと感じ、己の三半規管の過敏さを呪いたくもなる。


以前にも申し上げたが、こんなエッセイにもなれない中途半端なエゴの掃き溜めは、基本的に書き始めたらそのままの勢いで書き上げてしまいたい。それに輪をかけるようにして朝目が覚めるために書きたいことが変わってきてしまうのだからたまったものではないのだ。
それゆえに付箋に書かれた申し送り程度でしかない書きかけが散乱している。それこそドラマ等で見られるようなオフィスで物理的なデスクトップの縁に無造作に貼られたカラフルな紙、まさにそれだ。
まったく躁気質にも程がある。しかしあれもこれもと手を出し、それら全てを完璧に仕上げたゲーテという男は、現代を生きていたとしても間違いなくスーパースターと持て囃されていたに違いない。



今朝書こうと思ったのは、毎月恒例になりつつある友人の“禊”という名の風俗に同行する件についてだった。ちょうど昨晩の話になる。鉄は熱いうちに打てということだ。
まあ、毎月タダ飯食わしてもらってるわけで、いささか恐縮してはいるものの友人たっての希望なのだから同行を断る必要もないし、むしろ楽しまなければ逆に友人にも嬢にも失礼だ。こうして文章にして残しておくのもまた、私なりの礼儀というわけである。


60分1万1千円。これが高いのか安いのか相変わらずわからないが、心ひとつで安くも高くも思えるということだけは理解している。何だってそうだろう。惰性でやることほど不毛なものはない。
ただ一発の射精に1万1千円と考えるのは間違いだ。射精単位で換算するならば自宅でひとり励む以上のものはないのだから。射精に対する付加価値、つまりドラマ性やエンターテインメントを愉しめなければ極論行く意味はないのだ。
むしろ射精がエンタメの副産物のように感じられるときもある。ただし射精を蔑ろにしてしまうことだけはあってはならない。大意を見失った瞬間、人はいとも簡単に崩れ落ちていく。


全裸になったとき気付いてしまった。ニ週間前に右脚だけに除毛クリームを塗りたくったことを。
いま思えばYouTubeの広告で頻繁に出てくるアレを譲り受けたのが終わりの始まりだった。幼き頃に進研ゼミから定期的に送りつけられてきた布教マンガを流し読みして育った私としては、あの胡散臭い広告も結構な頻度で見入ってしまう。それゆえ除毛クリームにも当然興味をそそられており、試してみたいとは常々思っていた。それがひょんなことから手に入ってしまったのだから実験したくもなるだろう。
広告で謳っている効果の真偽を確かめるには自らの身体で対比実験をするしかあるまい。やることはいたって簡単。除毛クリームを右脚だけに塗り、左脚はそのままにする。そして一ヶ月後どうなっているか確認をする、それだけ。
正直、実験結果を確認するためだけに生きていると言っても過言ではない。それほどまでに楽しみにしているのだが、この惨状を嬢に見られてしまうのは非常に恥ずかしかった。だからといって自らカミングアウトして予防線を張るような行為は店側が許しても私が許さない。フェアプレーの精神に則り、何気ない顔をして嬢に醜態を惜しげもなく晒すことにした。


日頃から最悪の想定をしておくことを推奨している。人生万事パルプンテ。何が起きるかわからない。傷付かずに生きたいのならば、石橋は叩いて壊せばいいし、外堀は埋めて山にすればいい。
この場合のワースト3から順に発表すると、3位は引かれる。2位はシンプルに苦笑い。1位は見て見ぬ振り、だ。どう考えても弁明の余地すら与えてくれないワースト1位は地獄以外の何物でもない。
結論から言うと嬢は「前に右脚だけ大怪我でもした?」と言ってきた。私は「そうなんすよ」と答えた。


どうやら私は昔、右脚に毛が生えてこなくなるほどの大怪我を負っていたらしい。初耳だった。



ひと通り終えたあと嬢が聞いてきた。
「セックスしてて勝手に途中で抜かれて『もう疲れたから口か手でして』って言われたんだけど、そんなことありえる?」
ありえないね、と私は答えた。


じゃあ、と続けて嬢が聞いてくる。
「一回だけ一緒にイけたとき『やったね!』って言ったら、『オンナってこういうのがいいんだよな』って言われたんだけどどうなの?」
ひどいもんだね、と私は答えた。


だよねだよね、と調子づいた嬢が言う。
「若い子ってみんな性に貪欲さがなくなっていってるのかな? 前に来たお客さんも『友達とジャンケンして勝ったオレがこっち(メンエス)に来て、アイツはソープに行った』って言ってたの! 普通に考えたら勝ったらソープでしょ?」
いやそれは違う、と私は食い気味に答えた。


何もわかっちゃいない。
世の中には自分は全裸で直立不動で、普段着の嬢にただひたすら無言で真顔で手だけで導かれたいという変態もいる。私の友人だ。
彼の主張はよくわかる。プライベートとお店は全くの別物で、似て非なるものだと。家で食べるインスタントの袋麺はたしかに美味しいが、ラーメン屋にそれを求めないだろう。上手く例えられている気はしないが、まあそういうことである。


今回もまたひとつ収穫があった。
人間、こうして成長していくんやろなあ。

ソルヴェキの森

大御所作家が書きそうな文章を書いてみる。
というテイで自分が書きたいことを容赦なく書いてみる。
下世話な話が苦手な方は他の記事を熟読し、来週までにA4用紙1枚程度にまとめること。



朝早くに家を出て日中動き回り、夜遅くに帰宅した日の風呂場で私は驚愕した。

履いていたボクサーパンツを脱ぐと縮れた毛がはらはらと落ちていく。床には黒い波線が六本。それだけならば別段何も驚くことはない。股間に当てたシャワーの水圧により排水口に流されていった十数本の陰毛が私の顔を青ざめさせたのである。

こんなに抜け落ちるものなのかと正直引いてしまった。
頭の薄い人にとっては耳が痛い話かもしれないがたしかに頭髪も相当数が毎日抜けているらしい。それに居間に落ちている毛の大半が陰毛という奇怪な事実を鑑みれば妥当なのかもしれない。

たかが陰毛が思いのほか多量に散らばっただけの話だとあしらわれるのは甚だ存外である。ただ対象が陰毛だっただけであり、目を向けていなかったもの、あえて目を背けていたものと対峙したとき、人間は程度の差はあれ誰もが陰毛に対する私と同様の反応をする。いや、せざるを得ないのだ。
衝撃の事実と直面し当惑するも、妥当性を確認し納得して前に進むのだ。



固定観念という巨悪に支配されていることすら気付かぬ間抜けなマリオネットが君らであり私である。そもそも陰毛は不要なのではないかと、誰もが一度は辿り着く当然の疑念は、何故だか無かったことにされ毛を生やしたままの日常に戻っていく。

何らかの見えない大きな力、それが固定観念という“呪い”なのだと私は考えている。
無駄な毛は処理をすれば良いという共通認識がありながら、最も無駄に思える陰毛は成り行きに任せているそのいびつな事実は、陰部には縮れ毛が生えているものだという幼き頃に植え付けられた、いや脈々と受け継がれてきた遺伝子に書き込まれている“呪い”ゆえである。

しかしながら、陰部を剃毛した状態を『パイパン』と呼ぶことは広く知られている。ともすれば陰毛を処理する文化もあるという確固たる証拠である。
この陰毛を処理する少数勢力は固定観念という巨悪に立ち向かうレジスタンスと呼べるのではないだろうか。剣を手に取るのではなく、剃刀を手に取るだけの違いしかそこにはない。平和ボケしたこの世を叩き直すべく剃刀を股間に当てがい、レジスタンスの証たる『パイパン』を我が身にも宿す日は、そう遠い未来の話ではないはずだ。



断じて私はないのだが、本の間に陰毛が挟み込まれているという都市伝説があるらしい。一体どういうことなのだろうか。

栞代わりに自ら挟み込む輩はいないと信じたい。第一、見た目からして滑稽で頼りない陰毛では挟んだとて、任意の頁を開くことなどできないに違いない。どのようにして開くというのだ。
実用性を微塵にも感じられない愚行を働く者が私と同じ人間であってはならない。あるはずがないのだ。

故意的に本の間に忍ばせたのではないとすると、偶然入り込んでしまったということになるのだがどうも納得がいかない。本を股間の下で読むことなどあり得ないからである。
人間の構造上、本を読むには目を使う必要があり目は上半身の上方に位置する顔に二つ付いている。当然のことだが、本に陰毛を紛れ込ますには人体の限界を超越した曲芸じみたことが必須となる。果たして可能であろうか。

これが仮に不可能だとしたら、本の隙間への侵入を許すには偶然上半身のどこかに陰毛が身を潜めているはずなのだ。しかしながら陰毛は股間にあるわけで、たとえば股間を触った手に陰毛が付着することは考えられても、そのような不潔な手で本に触れるだろうか。少なくとも私はそんなことをしない。
であるため、本の間に陰毛が紛れ込む謎の解明はできそうにない。

ただし、猥褻図書の類にかんしては突き出した股間で読むうえに猿のように触り倒すため、当然ながら陰毛はエロ本に嬉々として舞い落ちる。そして紙面で踊り狂うのだ。



我々は陰毛と泣き笑い、苦楽をともにして、
果てしない未来を歩んでいくのである。
その一歩は小さくとも、着実に前には進んでいるのだ。

股間にたたえる鬱蒼とした『剃るべき森』とね。

寒さのせい

はじめて死にたいと思ってしまった。


いつものように歩道橋の上を歩いていると、凍てつくからっ風に煽られた。
そのとき、それはもう何の前触れもなく、咄嗟に。


なんか、寒いからだろうな。
ぜんぶ寒い。
寒さのせいなんだよ、全部。