303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

「ほら息が白い」
煙草の煙を吐いて言ってみせた。

「そんな子供だましに引っかかるわけないでしょ」
子供のまんまだねと言わんばかりの呆れ顔で君はため息をついた。
「あ、白い」
「言ったじゃん」
白い煙が夜に溶け込んで消えた。

「そういえばこの前言ってた小説はどう? 蛍雪の功をテーマにした姉妹のやつ」
「消した」
アスファルトに投げた煙草を右足で踏み潰した。

「面白いと思ったのに勿体ない。どうしてそんなにもこだわっているの? いつも一発書きじゃない」
元々大きい目を真ん丸にして驚いていた。その視線に耐えられず足元の吸い殻に目をやる。
「雪というお題をもらったんだ。勝手に愛しく思っている人に。だからつまらないものは消して、納得いくまで書くんだよ」

「ふぅん」
お手本のようなふくれっ面をしてそっぽを向いた。不機嫌になるとそうやるの、昔から変わらないな。
「そうは言っても、ただ幸せに過ごしてくれてたらいいなと願うことしかできないんだけどな」
「あっそ」
冷たい態度を取られたせいなのか、寒さが一層厳しくなった気がした。

「悪かったよ。温かい飲み物買ってくるから、何がいい」
「じゃあココアにする」
やっぱり子供のままなのは君のほうじゃないか。つい口をついて出そうになった。急いで背中を向け悟られないよう自販機へ向かった。

自分は何しようか。本当は微糖の青い缶コーヒーが好きなのだけれど、あてつけにブラックコーヒーを買ってやろうと思った。でもやめた、それこそガキみたいだ。

「はい、ココア」
「ありがと。てか青い缶々じゃん、ブラックじゃないところが可愛らしいね」
さっきの言葉、言ってやればよかったと心から思った。
「はいはい」

終電がとうに走り去った真夜中の駅は、日々の喧騒がまるで嘘のように静まり返っていた。

「そろそろ帰ろうか」
寒さを紛らわすために買ったコーヒーの熱がむしろ、寒さを際立たせているように感じられて仕方がなかった。
「うん、帰ろっか」
そう言って君は歩き出した。隣の家に住んでいるのだ、横並びで歩いて帰る。明け方に向かって夜は容赦なく寒さを強めていく。

「しかし寒いな。雪が降ってもおかしくないだろう」
「そういえばさ、子供のとき大雪が降った日のこと覚えてる?」
覚えてる、と言ってほしいと顔に書いてあった。

「ごめん」
「そっか……」
意外だった。不機嫌になって怒ると思ったのに、とても寂しそうな顔をしていた。

その後、特に言葉を交わさないまま家まで着いた。

「じゃあ、また」
「うん、またね。ココアごちそうさま」



覚えてる、覚えてるさ。

3月だというのに大雪が降った日のこと。
近所のみんなで雪合戦したあとにかまくらを作ったことなんて、忘れられるわけがないだろう。
一度きりのファーストキスは君に捧げたんだ。



いまの自分には物語は書けない。
ならば今日の出来事、いまの感情を書くしかないと思った。
なぜ素直に覚えていると言えなかったのかはわからない。
だが、その気持ちを、書いて作品にすることしか今はできないということだけは、知っている。