303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

1分

終電を逃すことにはさすがにもう慣れた。
1分早くお店を出ていれば間に合っていたと考えたら非常に阿呆らしい。その1分に終電を逃すほどの価値があったのだろうか。しかしまあ終電間際の名残惜しさには冷静な判断をさせない圧倒的な力がある。
仕方がない、そういうものなのだから。

下世話な話もたまにはさせておくれ。
昔はそんな話ばかりだったのだ。許せ。



クリスマスの1週間くらい前の話である。

「風俗に行きたいが1人では行けない」と言われ
「いま財布的にそんな余裕ない」と返したところ
「お金なら出しますので着いてきてください」
と驚きの返事が来て当惑した話だ。

本人がそう望むなら良いのだろう、そう思った。思いもよらぬ形で急遽しがない男2人で風俗店に行くことになった。何が楽しいのやら。

風俗行きたいがために久々に連絡してきた高校の友人と合流し風俗街に足を踏み入れようとしていた。ここの段階ですでに緊張している。僕だってそこまで慣れているわけではない。身体の前でクロスを切り、合掌してから大きな一歩を踏み出した。

とくに精査することもなく、目についたヘルスの扉を開く。狭いエントランスに入るやいなや老齢の男性スタッフが飛んできた。遭遇したことはないが妖怪がいたらこんな風なんだろうなと思わせるくらい、物音を立てず流れるような俊敏な動きで「いらっしゃいませどうぞ」とスリッパを用意し外履きから履き替えさせられ消毒検温を手品のような早業で済ませる。
指名なしのフリー、40分1万円。忙しなく終わってしまうとわかっていても僕はお金を出してもらう身、黙って合わせる。

友人はひとあし先に呼ばれていった。待合室にひとり残された僕はソファに座り煙草を吸いながら呼ばれるのを待つ。背面の壁には女の子の写真がずらっと並んでいてお世辞抜きで全員可愛い。それが余計に怖くもあるのだが。

吸い終わると同時くらいのタイミングで呼ばれ部屋に通される。申し訳程度の間接照明でほぼ暗闇、待合室で見た写真どおりの可愛い子であったなら勿体ない暗さである。まともに顔が見えないのだもの。
暗がりの部屋に若い女性が佇んでいる。はじめまして、と挨拶をしてベッドに座らされる。
いきなり年齢を聞かれたので答えると、控え室で予想してたよりだいぶ若いと言われた。23歳くらいに思っていたらしい。お姉ちゃんのお店では必ず若い若い言われるけどそういうオペレーションでもあるのだろうか……そういやそんなこと前にも言ったような気がする。

初めて知ることになったのだが、待合室にはカメラがあり控え室から見ることができるらしい。理由は知り合いが来たときに避けられるようにするため、とのこと。なるほど。
だが僕がまぬけ面で煙草をぷかぷかしながら嬢の宣材写真を見ていたのも筒抜けということに関しては遺憾の意を表したい。

服を脱がされシャワーを浴びながら色々話をした。歴が1ヶ月ということ、学校のこと部活のこと、乾燥で鼻が詰まっていること、なんかちょっと眠いこと、など。短い時間ながら他愛もないこ会話で結構色々聞けたと思う。
働き始めた理由も透けて見えた。看護学校奨学金を早期返済したいのだろう。病院で3年働けば免除、という制度に縛られないための選択、立派だと思うし応援してあげたいと思った。
源氏名も聞いたはずだけど忘れた。そもそも最初にも名乗ってくれた気がするのだが。

部屋に戻ると一瞬だけ恋人ごっこをしたのち、タオルを引っ剥がされベッドに仰向けにさせられた。
昔の僕なら歓喜のあまり窒息死するまで顔を埋めてたであろう大きな胸も今や見慣れてしまって特に感動はない。だが挟み方を知っているか知らないかには雲泥の差があり、この子は確実に挟み慣れていて自分の武器として認識していた。四次元の動きをする乳房の間に挟まったまま、もうここで果てても良いと心から思えた。

何時何分何秒から始めたのか、地球が何回回ったときだったのか覚えておくべきだったと後悔した。あと何分したら出せばベストなのか全くわからない。鼻をすすりながら口でしてくれているそれが上手いか下手かなんてものは関係ない。ただ頑張り過ぎてるような気がしたから早く楽にしてあげたいと、意識的に早めに出して終わりにした。

ティッシュ2,3枚取って吐き出しゴミ箱に放る。乾燥していた鼻から急に鼻水が出そうになって大変だったらしい。恥ずかしければ耳塞いどくから鼻かんだ方がいいと言うと、またティッシュを2,3枚取って僕に背を向けた。

だいぶ時間的に余裕があったらしい。時間目一杯までサービス受けなきゃ損という考え方もわかる。だけど私はプライベートのときと変わらない自分でありたいから、制限時間まで何が何でも我慢するみたいなことはしたくないんだ。良いお客さんでありたいからね。

鼻をかみ終わった女の子は背を向けたままベッドの縁に腰掛けたあと、寝たままの僕の右腕を枕にし隣に寝転がった。余っている左手を、女の子は引っ張って自分の前側に持ってこさせた。後ろから抱きしめる形になった僕に対し「優しいですよね」と言ってきた。

お店の女の子の言葉はどれが本当で嘘かわからない。すべて嘘だと思ってて良いと思っているが、本当のことだってあるかもしれない。信じたい気持ちはあっても勘違いしている痛すぎる客にだけはなりたくない……というのも前に言ったような気がする。
そんなのどちらでもよい。一通り話を聞いた上でこの子をよい子だな、と僕が思ったただそれだけが重要なのである。

時間になりシャワーを浴びに行くそのとき、勝手にカーテンを開けて出ようとして怒られた。タオル1枚で友人と鉢合わせたらどうすんの、と。そこまで気にしないんだけどお店的に客同士が会ってしまうのはNG。女の子に手を握られシャワールームまで連れて行かれる。わりかしこれを悪くないと思っている自分がいる。
シャワー後、ちゃんとタオルで水滴を拭き取ったつもりでいたが背中が全然拭けていなかったらしく、女の子に「しっかりしてよ、でもそういうとこ可愛いと思う」と言われ変な気分になった。

部屋に戻って服を着ているときマスクを落っことした。女の子はそれを拾い僕の耳にかけてくれた。下手したら今日ここまでで最も性的な瞬間だったかもしれないと感じた。

今度は勝手に開けることなく女の子が開けてくれるのを待った。勝手に開けないでねと釘を刺されてもなお開けようとするほど僕も馬鹿ではない。褒めてくれよ、学習したんだぜ。
個室のカーテンを開け、こちらと待合室とを分けるカーテンまで手を引かれた。ここを出れば外は寒い寒い現実。見知らぬ初対面の女の人が肌を晒け出すことはもちろんない。
だいたいどの店でも、この夢と現実の境界で名残惜しさを感じている客を嬢は確実に仕留めてくる。女の子は、先程自らの手で僕にかけたマスクを下にずらし、軽くキスをした。そしてマスクを元通りにした。控えめに言っても興奮した。下手したら記録を塗り替え今日ここまでで最も性的な瞬間だったかもしれないと感じた。



店を出て、ここは現実世界。
先に終わっていた友人は震えながら煙草を吸って待っていた。

学生時代、煙草1本を4分計算するのが妥当だということを導き出した。我々の界隈では時間の単位として浸透し、ポピュラーなものとなっている。
彼いわく煙草3本分待ったらしい。4分×3本、つまり10分強。
それはすまんかったと侘び、このまま帰るのも消化不良だったため以前通いかけてたバーで反省会をすることにした。
大通りから細い路地に入って少々行った右手にある建物の2階、木製の重い扉を開けて階段を昇ったとこにある隠れ家的なバーだ。

今まで見たことがないほどの大盛況。コロナ禍だというのにけしからんな、と思う我々も他人のことを言えるわけがない。次亜塩素酸水を入れたスプレーを毎日携帯してバシバシ振り撒いているとはいえ、だ。
カウンターは満席。仕方なくテーブル席に座る。いつものようにマスターひとりで回しているが明らかにキャパオーバーで、マスターとだいぶ離れているテーブル席からオーダーするのは非常に気を遣った。タイミングを慎重に見計らい注文した。風俗店同様、良い客でありたいからね。
入店からそこそこ経ってから、僕のソルティドッグと友人の黄色っぽいカクテルが出てきた。

とりあえず彼に感想を聞いた。
友人についてくれた女の子は今日が2日目だという。新人中の新人で、彼の相手をするまで客は全員50代で父よりも年上だったらしく、しょうもない28歳でも喜ばれたらしい。良かったね、友人。
内容は良くも悪くも普通だったらしく、2日目だったということ以外は印象があまりないらしい。お前なんかが贅沢言ってるんじゃあないよ、と僕は言った。

ソルティドッグを飲み干したあたりでは終電までまだ時間があった。もう1杯注文することにした。僕は置きに行ってチャイナブルーを、彼は同じのを頼んだ。
店内は相変わらずの大盛況。こんなにも慌ただしく動くマスターを初めて見た。だから遅くたって構わない。構わないけれども終電の時間は待ってくれない。多少の焦りはあった。

ようやく青いのと黄色いのがテーブルに置かれた。この時点で終電までおおよそ15分。先に会計を済ませた。マスターは“申し訳なかったから”とテーブルチャージを引いてくれた。逆に恐縮した。
そんなマスターが作ってくれたカクテルを一気に飲み干して帰るなど、僕にはできなかった。時間を気にしつつも、最後まで味わって飲む。そう決めたのだった。

グラスを乾かしたときにはもう10分を切っていた。マスターにまたゆっくり来ると伝え、急いで駅に向かった。
急いでいるとはいえ、走りたくはない。せっかくの美酒を汗に変えるなんて勿体ない。マスターがシャカシャカ振ったカクテルは当然ながらスポーツドリンクではないのだから。

友人は私鉄で、終電まで時間があるらしく悠長にしていやがる。僕はしびれを切らして彼を放って歩を速めた。
学生時代、ここの駅の改札は1階にあり、居酒屋が建ち並ぶ通りから走れば3分で電車に滑り込めた。しかし大掛かりな改修工事を経て改札まで無駄に長いエスカレーターを2本乗ってようやく辿り着く仕様に変わっていたのだ。かつての感覚で間に合うと思っていたから大誤算である。

エスカレーターの手前であと2分。さすがに走らなければと思ったものの、エスカレーターで走るわけにもいかない。時間を詰められる場所は残されていない。
改札を抜けロスなく6番線のホームへ階段を駆け降りる。
しかし無情にも目の前で扉が閉まった。



一応、最寄りの、各駅でいえば4駅、快速なら1駅手前まで行ける電車はある。とりあえずそこまで行くことにした。勿体ないがタクシーを使って帰ればいい。値上げして4000円を超えてくるが仕方ない。

終点で降りる。仕方ないからタクシーで帰ろうと思ったが、すべて出払っているようだった。
待っていれば良いとは思う。だがこんな寒い夜にじっとしているなんて僕にはできない。暑いと寒い、どちらが我慢できるかと問われれば間髪入れずに暑い方と言う。そのくらい寒いのは苦手だ。
余談だが、そうはいうもののウインタースポーツは好きである。さらにいえば、虫は嫌いだがアウトドアは好きだし、ぬめぬめするのは人並み以上に生理的に無理だが釣りは好きだ。人間、そういうところあるよね。

だから歩くことにした。
グーグルマップで見てみると家まで距離にして11km、想定時間は2時間強。面白いと思っちゃった。

しかしながら歩きはじめてみると暇で仕方がない。人気のない暗闇を進んでいくのもやはりどこか寂しいものがあった。
昔使っていたアカウントで配信を始めてみたが、誰も来ない。たぶんみんな死んだのだろう。
もちろん通話相手になってくれる人もいない。いつのまにかみんな故人となっているからね。合掌。

何か楽しみを見つけるしかないと思い、ルート沿いのコンビニに全て寄り缶ビールを空けることにした。
はじめのコンビニで買ったら次のコンビニで空き缶を捨て、新しいビールを手に次のコンビニを目指して歩く。言うならばコンビニ飲酒スタンプラリーである。我ながら最高に面白いなあと思い、ハハハと乾いた笑いがナチュラルに出てきた。

かいりきベアの『ダーリンダンス』、サビ終わりの「ちゅ」が9割だと僕は考えている。どこの馬の骨かもわからない人が歌ってみた動画をYou Tubeにアップしている。それもかなりの人数。
再生回数を1回増やしてしまうのは癪だが、暇だし、ビール飲みながら最高の「ちゅ」を探すことにした。

チェックポイントであるコンビニ、ビールを補給する給水所をもれなく通過しながら、『ダーリンダンス』を聴き続け「ちゅ」の批評を2時間にわたり続けた。
最強の「ちゅ」は、案の定あるふぁきゅんであると結論づけた。ぽっと出があるふぁきゅんに勝てるはずもないんだ、結局のところ。

家の玄関を開けたときには膝が笑っていた。ハハハと乾いた笑いだ。そりゃそうだよね。道中何度もタクシーとすれ違っていたが止めることもなく、車なら20分くらいで着けるものをわざわざ2時間半近くも歩いたのだから。ドMなのだろうか。否、自分にストイックなだけである。



たった1分、されど1分。
価値などない、何気ない1分が、その後を大きく変えたのだ。
店をもう1分早く出ていれば電車で最寄りまで帰れたかもしれない。1分早く改札を出ていればタクシーがあったかもしれないし、寒さを我慢して1分待っていればタクシーが帰ってきてたかもしれない。

しかしながらこうしてふざけた夜を経験できたのだって気にも留めない僅かな時間、無意識に近い無数の選択によるもの。
これもある種バタフライエフェクトというやつなのだろう。

あの1分が…という話をしたものの、現に存在するのは“いま”だけである。あそこでああしていれば、あちらを選んでいれば、というその先にあったであろう別の道なるものは、ない。存在していないのだから、元々なかったのだ。
ようするに「“いま”を信じて生きてくれよな」というそれだけを僕は言いたかった。それがすべて。