303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

夕暮れ時の快速列車は何を乗せて走るのか。草臥れたスーツの背中、大きな紙袋をぶら下げた左腕、私の足りない脳みそ。そんな有象無象を無造作に詰め込み夜へ向かって揺れ動く。
強い西日を背に中吊り広告に目をやる。何か理由があるわけではないが、ただ漠然と、以前に見たものと比べ雰囲気ががらっと変わったように感じる。まあ無理もないか。電車で通学していたのも気付けば3年も前の話。


話し声の大きな二人組が乗車してきた。そこでイヤホンがないことに気付いた。本を忘れた、携帯の充電がない、そんなときのやるせなさをふと思い出した気がした。
まったく耳とは原始的な器官だ。目は閉じればいい、鼻は呼吸を止めればいい。なのに耳だけは手や物を使わなければ機能を制限することができない。聞きたくない声や音くらい誰にだってあるはずなのに。喧騒の中で生きざるを得ないのが現代人なのに。あまりにも前時代的過ぎるんだ。


「次は千葉、終点千葉駅です」
日がすっかり傾いた九番線のホームに降りる。その足元から這い上がってくる冷気は全身を震わせた。春の訪れを感じさせた日中の陽気は嘘だったのだろうか。不機嫌になりながら家路に急いだ。





絶対的なものはないということだけが、この世における唯一の絶対的なものだと主張している。それならば死はどう考えるのかと反論されるが、それは自分が死んだことのある奴のみ言えることだ。いま一度自らの人生を振り返り、死んだ覚えがあるならば素直に認めてやる。
暑い寒いも、美味しい不味いも、好き嫌いも、すべて相対的だ。そのもの同士の、なんとなくある基準や現状のようなものとの比較。不変の価値なんてものはない。この世は可変的で相対的なのだ。
もっとも、自らの心がそのまま世界なのだと、私は考えているわけだが。


上着の右ポケットから鍵を取り出す。そのときにオイルライターとぶつかって鳴るカチャカチャとした小気味よい金属音は悪くない。鍵穴に差し込む音も、解錠時の音も。その音には帰宅したという安堵感も含まれているのだろうね。
一人暮らしの家はなんとなく寒い。物音ひとつしない暗い部屋に煌々と光るデジタル時計の温度計は18.3℃と表示している。やはり数字ではないのだと思った。暑くても寒かったり、不味くても美味しかったり、嘘であっても本当だったり。そういうものなんだなと改めて感じた。


ベランダに出て、火をつけた煙草の煙を浮かびきっていない半端な月に吹きかけようとしてみた。あと三、四日で満月を迎えそうなその隙間を、この煙で埋めてみたら良いのではないだろうか。遠くでお高く止まっているお月様に心のなかでそう提案してみた。嗚呼くだらない。とある文豪の言葉を拝借するならば『なんとも阿呆らしいかんじ』である。
ため息のごとく吐き出した煙は左側に流れていった。いま私の左には隣家とを隔てる石塀だけが存在する。嗚呼くだらない。気付いてしまった肌寒く感じる理由もまた『なんとも阿呆らしいかんじ』である。





「掘れば掘るだけなんか出てきそう」
「温泉かなにかかい?」
「どちらかといえば石油かな」


錦糸町駅南口の喫煙所でこんな会話を聞いたのは今日が初めてだった。温泉だろうと石油だろうと掘って出てくるなら迷わず掘り進めたいのだが、これは君が私に向けて言ったことだ。つまり私を深堀りすれば面白いものが出てきそうという意味である。この場合の相場は噛めば噛むほど味が出るだろうが、噛まれて味が出るよりも掘られて石油が出てくれたほうが個人的には嬉しい気がする。感性の問題でしかないのだけれど。
アパルトヘイトを敷かれ十数枚のパネルで分けられた喫煙者の収容所。入り慣れたここが新鮮に感じられたのは左隣に君がいたからだろう。バイトに行く前の君の足をわざわざ止めニコチン摂取に付き合わせた身勝手な私は、今日の出来事を思い返しては感傷に浸っていた。そういえばさっきも身勝手に煙草を吸ってしまったな。





レトロな純喫茶に着いた。洋食屋さんから数分の散歩は食後にちょうど良かったのだが、満席で一人男性が待っていた。席が空くまで外で煙草を吸って待っていれば良いだろうと思った。強い風の中、思えばここでも左側にいる君に煙がいってしまっていたんだ。そうしているうちに二席空いたらしく、一人の男性と後から来た一組のカップルが通されてしまっていた。
「ごめんね、煙草なんて吸っていたせいで」
私に言える言葉なんてものはこれしか残されていなかった。


暖かな陽気だった。風さえなければという条件付きではあるが冬の終わりを感じられた。
もう春は近い。それを肌で感じるのも悪くないし、公園でひとりベンチに座り無感情でいたという君をいじるつもりもあり、公園に誘った。もっとも私自身、深夜の国道沿いを徘徊し、手放した愛車のことを思い出して泣きながら帰るような男だ。他人のことなど何も言えないのである。


「仕方ない、隣りに座ってやるから」
茶化して言ったが、実を言えば私がしてほしいことでもあった。季節の変わり目を共に感じることより素敵なことがこの世にあるだろうか。


二人がけのベンチには優しい陽が注ぐ。右側に座った君の視線は私の奥の地面、鳩にあった。その鳩はこの上ない阿呆面をしていた。
足るを知るということはこういうことなのだろうなと、改めて平和な日常の小さな幸せを噛み締めて思った。同時にその平和な日常というものを守るのも厳しく難しいという現実も知っている。というよりも厳しい現実があるからこそ、何もない平凡な一日が素晴らしくかけがえのない日に感じられるのかもしれない。
名前も知らない人の疲れた顔や険しい顔、私たちは互いに毎日それを見せて見せられながら生きているからこそ、こんな阿呆面の鳩を平和の象徴と呼ぶのかもしれないね。





日が陰り場所を移動したのも束の間、あっという間にサヨナラの時間になってしまい喫煙所に来たのである。掘れば石油が出そうというのは今日一日を一緒に過ごした君が抱いてくれた感情なのだから、嬉しいに決まっている。感性の問題と言ったが嘘だ。こうやって順を追って話してみれば私がいかにまともかということがわかるだろう。


同じホームから逆方向の快速電車に乗ることになる。最後まで見送れるのは良いことかもしれないけれど、名残惜しさも堪え難いほどである。どんなに名残惜しくても私にできることなんてたかが知れていて、どんなに頑張っても二つしかない。
一つは、その名残惜しい気持ちも大切に噛み締めて今日の想い出と一緒にしまっておくと決めること。
もう一つは、「また会いたい」と口にすること。


私はできる限りのことをして、夕暮れの快速電車に乗った。





煙草の火を消し部屋に戻った。さっきよりも暖かく感じられたが18.3℃のままである。もちろん外気に触れていたからその差もあるだろう。

しかしそれだけではなくて、先ほど感じた肌寒さの原因が鮮明にわかったことが何より大きいのだ。さっきまで隣に居てくれた人がいない、その差だ。

それに気付いたからこそ、今日が素晴らしい一日になったということを改めて強く感じた。想い出として私の中にたしかに残る。そしてその想いが私に寄り添う。
だからかな、いま暖かく感じられるのは。