303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

プァエ

かつて『プァエ』という阿呆がいた。
いま「プァエ」と名乗っている私は、名前を借りてるに過ぎない全くの別人だ。

彼には勢いがあった。
頑固でわがままで我が強くて強引で自己中心的な性格が次第に人を遠ざけたのかもしれないが、それなりに周りには恵まれていた。
なりふり構わずやりたいことをやるような、そんなところに共鳴してくれる人、嫌な部分を差し引いても目を瞑って仲良くしてくれる人、なんだかんだ気にかけてくれる人が今もなお居てくれているのもまた事実。
自分の評価を正しくできる人は多くないし、少なくとも彼にはできなかった。ただ自分では気付かない良いところも悪いところもたくさんあったのだと思う。でなければ現状の説明ができないのだ。

いま借り物の名を称している私に、彼の魂はない。
月日が経ち、君たちが変わったように私もまた変わっていった。いや、冷静になってしまったのだ。
私自身、彼のことは好きで嫌いだ。あの長らく続けていたキャラクターを、キャラクターと言えど何かを意図的に演じていたつもりもないのだが、愛おしく思う。
冷めた言い方をすれば、面白いコンテンツだった。

きっと周りの方達も抱いているはずだ。いまのプァエと昔のプァエは違う。昔のプァエがプァエだと思ってて、いまのプァエはプァエじゃない。
君たちが親しんでくれていたプァエさん、オリジナルのプァエは本日を以って終了です。

今後はプァエを仮名として名乗るだけの私を、どうぞよろしくお願い申し上げます。

黒夢

昨晩は珍しく、きちんと寝ようとした。
携帯を充電し、目薬を点し、布団をかけて、電気を消す。目を閉じて今日の出来事を思い出したり明日の予定を確認したり、はたまたしょうもないことを考えながら、だんだんと意識が薄れ眠りにつく。そんな当たり前から最近は遠ざかっていた。
いわゆる寝落ちというやつで気付けば寝ている、と言うよりも目が覚めたときにはじめて寝てしまっていたことを知る。電気はつけっぱなし、スマホの画面には書きかけの文章。寝るつもりではないタイミングで寝るもんだから起きたところで昨日の続きという感覚である。
しかしながら寝落ちというのも必ずしも悪いものではない。むしろ合理的とも思える。寝る予備動作をせずノーモーションで寝るというのは非常に時間効率が良い。極端な話、寝るまでにかかる時間はゼロだ。対して意図的に寝ようとして寝るのは時間がかかり過ぎる。目を閉じてからの時間は長短はあれど非常に勿体ない無駄な時間だ。いつまでも寝つけないでいるときは地獄である。


昨晩は布団に潜り込んでから少なくとも三時間は寝られずにいた。この無駄で苦痛の三時間、これだから寝ようとして寝るのは非効率的なのだ。最も合理的なのは寝たいときに寝て起きたいときに起きる生活だと言わざるを得ない。
まあそれは冗談として、しかし無理に寝ようとして三時間も眠るために奮闘するくらいなら起きていたほうがよっぽど生産性があるわけで、生活スタイルや体質などを考慮せずに決められた出社時間はナンセンスな気もしなくもない。まあフレックス制がとれるならばその方が賢いのではないかと思うだけだ。言い始めたらキリがないが、何故に多くの企業が週休二日で七時間前後の労働と定めているのか。その決定に至る根拠はどこにあるのか。まさか「みんながそうだから」と言うわけではないよな?
平成ゆとりの戯言はさておき、いまの私にとって寝ようとすることは非常に困難である。


三時間以上かけてようやく寝たというのに、三時間程度の睡眠で目を覚ましてしまった。ゆえにとても不機嫌である。ただ睡眠時間が短いだけならまだしも、ふざけ倒した夢に起こされたのは腹に据えかねる。
夢の話をしたところで聞かされた側はだいたい「だからなに」と思うだろう。なので手短に端的に言うと、口論の末に喧嘩した話である。

自転車に乗っていると前を走る男が無意識だろうが邪魔をしてくる。それに腹を立て、信号待ちで苦言を呈すると男はヘラヘラした態度を取ってきて更に苛立つ。
どこか見覚えのある男、だが名前は出てこない。逆に男は私を知っているかのように私の知人の名前を出しながら話してくる。お前は誰なんだよと、頭の片隅にある小学校のアルバムをめくり、渡辺か?末廣だろ?猪狩だよな?と問うも不正解。
話は平行線になり、ギャラリーも増える。私はしきりに近くに見える公園の裏で話そうと誘う。低い声で圧をかけるように凄んだ。すると男の表情が曇り出し、そこに勝機を見出した私はここぞとばかりに詰め寄ろうとすると男は手を出してきた。それをビンタだけで応戦して、目を覚ました。


なんというか、サイコである。
フロイト的に言えば夢は抑圧された無意識的な願望らしいから、自分自身こんな夢を見てしまったことを恥ずかしく思う。ただビンタだけで応戦する意味は正直知りたいと思い、夢占いを検索してみた。まあ夢占いなのだが。

知らない人とは自分自身の分身であり、知らない人と喧嘩することはつまり自分自身の嫌な面から目を背けたい、否定したいとのことらしい。嫌いな人を殴るのは対象、この場合だと自分自身の嫌な面に対するストレスの発散となる。大勢がいるというのは多数の問題が複雑に絡み合っていること。喧嘩に勝つのは自分が対象、つまり自分自身に勝つということらしい。
そしてビンタ。ビンタの夢占いは思いのほか充実していて驚いた。知らない人へのビンタは自分の嫌な面に対するストレスや改善したいという気持ち、とのこと。

バーナム効果というものがあるらしいので鵜呑みにはしませんが、正直に言うと何となく直面している問題に近い内容ばかりであった。例えば父や母と喧嘩した夢に対しては何の思うところもない、というか当てはまる要素がまるでなかったので多少は参考にしてもよいのかなと思う。
上記内容をまとめると、今現在抱えている自分自身の目を背けたいほど嫌な面や複雑な事情にストレスを感じており、そのストレスの発散、改善の気持ちが強くあり、打ち勝とうとしている。
勝ち方にもひとつあるらしく、スッキリ完勝したならば問題解決の吉夢であるがモヤッとしている場合は言葉通りモヤモヤした解決になるかもしれないとのこと。


まあなんだ、なんとなく見るべくして見た夢なのかもしれないと思えてきた。睡眠を妨げたことを許しはしないが、改めて自分の置かれている状況を再確認できたような、そんな気がする。
渡辺だか末廣だか猪狩だか知らないが、もしまた夢に現れたそのときはボッコボコのギッタギタにしてやんよ。そして土管の上でリサイタルやるんだ。Suchmos歌うからお前絶対に来いよ。
ドラえも〜〜〜ん、ジャイアンのリサイタル行きたくないし、僕のストレスはしずかちゃんのお風呂覗ければ二つの意味でスッキリするからどこでもドア出してよ〜〜〜
しょーがないなぁぁ〜 T E N G A〜(テッテレー

Suchmosを 歌うジャイアン 見たくない
見たい抜きたい しずかのおふろ』

友蔵、心の短歌




追記:黒夢のほうがカッコいいけどSADS

うまぴょい伝説

モーニング娘。の『LOVEマシーン』と『恋愛レボリューション21』、はっぱ隊の『YATTA!』を、平成の“ええじゃないか”だと論じる人物がいる。私は腰痛博士と呼ぶが、彼の視点や考察はたしかに鋭く、三曲とも沈み行く世を憂いつつ底抜けに明るくキャッチーな振り付けで踊る。当然、私もこの論を支持しているわけだ。

昨今、電波ソングなど珍しくない。が、ここで『うまぴょい伝説』である。世界情勢がどれだけ深刻でも、どんなに辛い境遇にあっても、ひと目なんて気にせず「うまぴょい♪うまぴょい♪」してれば万事解決だろう。ひと度「うまぴょい♪」したらたちまちみんな「うまだっち」である。

『うまぴょい伝説』の作詞者はこの曲の歌詞を、ワインを飲んで裸で書いたと聞いた。とんでもない逸話である。であるならば我々もワインを飲んだうえで全裸で「うまぴょい♪」するべきなのではなかろうか。酒で嫌なことなど忘れ、生まれたての姿で、頭からっぽのまま「うまぴょい♪うまぴょい♪」踊る……これ以上の現実逃避などあるだろうか。
これこそ、この『うまぴょい伝説』こそ、令和の、いや二十一世紀の“ええじゃないか”なのではなかろうか。

余談であるが、どうにもならない事態を目の前にし、現実を直視できないでいる私は、ウマ娘によって首の皮一枚繋がっている状態である。冷蔵庫の中に何もないことに気付き家を出たが、脳内では絶えず「うまぴょい♪」している。一種のドラッグだ。「うまぴょい♪」していれば元気になった気がする。『うまぴょい伝説』は精神を安定させる。

気付けば左手はワインを握っていた。我に返り棚にそっと戻した。

霊感少女

幼い頃から霊感少女を興味深く思っていた。
私にはそういったものがまるでない。彼女は何も無いところを指して居るとか喋っているとか言うのだ。これがハッタリや出鱈目であったとしても確かめようがない。
正直、気味悪いと思ったこともあるが、霊感が本当にあってくれたほうが幾分かマシだと思っていた。呼吸をするかのごとく平然と言うそれが嘘だった、と考える方が背筋が凍りついてしまうもの。子供ながらそんなことを思いながら彼女に目を奪われていた。


私はまるで何も感じない。とはいえ嘘だとも思っちゃいない。むしろスピリチュアルな話はわりかし好きな方だと思っている。
無駄に綺羅びやかなオバサンがFacebookアメブロで募集かけているような胡散臭いセミナーも、見た目は気色悪いが中身は全否定できないような気もしなくもない。具体的には言い表せない、しかしなんとなくだがたしかにそこにある。そんなものをどうにか説明しようとした成れの果て、なのではないかと私は思う。

とはいえ引き寄せの法則なるもの、あれなんて自己暗示だとか潜在意識だとか少し脳科学寄りの話で言うことも可能なのではないかと素人的には思うわけで。まあ言霊というのもよく聞きますけど。
しかしまあどうしてアメブロキラキラオバサン達はあんなにもわざわざスピった形にしているのか私には理解できない。


百聞は一見に如かず。
わりと好きな言葉のひとつなのだが、なんとも皮肉というか。トリックアートで思いっきり騙されアホ面で驚き喜んでいる人間の目および脳。うろ覚えでソースも不明だが、五感で知覚する情報の約8割が視覚によるものと記憶している。ようするにガバガバなんですよね。
恩師は、美しく見える女性が本当に間違いなく美しいか確かめるにはどうしたら良いか、という問を学生に投げかけた。学生は近付いてまじまじとくまなく観察すると答えた。恩師は言った。幻かもしれないのだから直接触れなければならないと。身体のパーツ全てを指で触れ、その情報をもとに脳内で立体図を描かなければならないと。
まあ、実体があるものはそれでいいだろう。

私自身、学がないため知識のない方向に話を進めるのは避けたいのだが、今回ばかりはやむを得ない。
実体のない、本当はあるのかもしれないが普通には見えないもの。質量や体積のない、というのだろうか。よくわからない。魂、精神、心……なんというかわからない。
つまり目では見えないそんなものの扱いについて。



双極性障害、私が7,8年前に診断された病名。
あえて言う必要もないし、言ったところで何も変わらない。それにまあわからないだろう。わからないから理解もない。病気に限らず、表面に現れなければ誰もわからないんだよね。色んなマークを制定して目印を付けるようになったのは合理的だと思う。

双極性障害はいわゆる躁うつ、イメージはしやすいと思う。散財など破滅的な行為までいく病的な高揚と、病的な抑うつ。それでもまあ理解は得られない。
そもそも自分でもよくわからないというのが本音で、昔はどこからが病的なのかという境界がわからなかった。特に躁。最近なんか元気だなぁという感覚。


私がしたいのはそういう話じゃない。
カニズムとしては脳の神経伝達云々らしいとはいえ、薬を信用してはいなかった。プラシーボ効果、そんなのだってある。

不眠症を訴える友人に駄菓子屋で売っている水色の瓶に入ったラムネ菓子を渡し、睡眠剤と同等の成分があるから寝たい1時間前に2錠をぬるま湯で飲んでみろと嘯いたところ彼の不眠は改善された。数ヶ月後に旅行に行ったときもカバンから水色の小瓶が見えた。実話である。

山手線ゲームで序盤に負けが込んだ後輩の罰ゲームを途中からバレないよう水に替えたところ、酒のときと何も変わらずそのまま水を飲んで静かに潰れていった。翌朝、誰よりも健康的な顔でいて水を飲む大切さを知った。実話である。

思い込みや自己暗示、催眠ほど怖いものはない。病は気から、これもある程度正しいと思う。だから自分の症状に診断された病名も、そう言われたがゆえに自分が病気に近付いていくかもしれないというのを危惧して考えないようにしてきたのはある。


だが、ここに来て私がこれまで飲んでいた薬はちゃんと効いていたんだと思い知らされた。ひどく後悔しているが、病院に行く金は最優先で用意しておくべきだった。

薬が切れて数週間。頭は常に靄がかっていて、集中ができない。書きたいことがあってもまともに書けやしない。この文章だってまともに書けている気がしない。この一つ前と二つ前も書いたものも全く書けていないし、内容も内容だったのでツイートしなかった。でもさすがに逃げるのはよそう、今日はツイートする。

話のテンポもズレているように感じる。自分のものが自分のものじゃないような感覚。思考は完全に止まるか、脈絡なく支離滅裂に広がるかの二択。判断が鈍い。正確な判断など下せそうにない。すごく寝たあとすごく起きてまたすごく寝る、イメージだが消防士のような睡眠状況。食事もそんなかんじ。

控え目に言っても異常。さすがに変だと気付いたし、これまでだんだんと治ってきていたわけではなく、ただ単に薬で抑えられていただけなんだと知った。


でもびっくりした。
欠勤の理由と体調の説明を今書いたのと同じように上司にしたら、「会話もできてるし今はもう全然問題なさそうだね、安心したよ」と言われた。
良い上司だからこそ、感情を咀嚼するのに時間を要した。無理もない、だって見えないんだもの。
上司のヘルニアはその痺れから動かしにくそうな足を見てわかるけど、私のは見えない。見えないのだから脳の神経細胞あたりを指差したって意味わからないでしょう。

現在進行系で訴えていても周りからは普通に見えているというギャップは苦しかった。まあ、普通扱いしてもらえることも、時に安心材料になるときもあるのだが。


自分が病気だと思って生きていないし、病人扱いされたいわけでもない。当然ながら理解されない苦しみは酷く耐え難いけれども、理解してほしいと願うのはわがままである。

見えないのだから仕方がない。自分自身もわからないのだから仕方がない。だけど現にあるこの異常な状態も仕方ないで済ませるには荷が重過ぎる。早くどうにかしたい。
そのために病院に行くための金を作らなきゃいけない。金を作るためには健康でなければならない。健康になるには病院に行かなければならない。この最悪な循環、ハメ技の一種と思っている。よくヘラヘラしていられるねって言われたけれど、そうしていないと保ってられないよ。まともに考えたら怖いもの。



でも何が一番怖いかと言われたら、薬を飲んだら全部普通に戻っていくところなんだよね。
私の思考や判断といったものが、薬で元に戻るというのなら良いのだけれど、もし仮に、異常な今が本当だとして強制的に好ましい在り方に戻されると考えたらどうだろうか。
私の思考とはなにか。感情とはなにか。わからなくないか?

冗談ですよ、
こんなクソみたいな状態が正しくてたまるか。

約束

じゃあ二年後。達者でな。



いつも一緒に飲んでいた350mlの缶チューハイを片手に夜道を歩いた。餞別としてこれを渡してくるあたりが相変わらず憎い。終電を逃した夜はまだ寒く、冷えたレモンサワーを持つ手の感覚は酔ってもいないのにほとんどない。

自宅まで22km、歩いておよそ四時間半。そして今日は日付が変わって金曜日。帰宅だけできりゃいいってもんじゃない。相も変わらず阿呆らしいね。早速、もらった缶を開けた。飲まなければやっていけないさ。


彼の家には何度も邪魔していた。一人で住むには少し広いくらいで、綺麗に整頓された居心地の良い部屋。壁にマスキングテープで“創生樹”が描かれているのも個人的には好きだった。通い慣れているはずなのに、やはり車と徒歩では全く違う光景だ。愛車で一瞬だった道のりも、歩いてみるとあまりにも冗長に感じられる。

江戸川に架かる最も新しい橋の上。こんな時間にこんな場所を歩いている物好きなどいるわけもなく、一人淡々と緩やかに弧を描き岸と岸を繋ぐ建造物をゆく。暗闇で正確にはわからないが、左に架かっている橋を見るに案外高いところを渡り歩いているのだわかった。

橋の中央あたりまで来ただろうか。欄干に手をつき酒を飲み干した。そして下を見た。
川の色は夜の闇と混ざり何色をしているのかわからない。夜の江戸川には夜が流れているのかもしれないとさえ思った。距離感も当然ながら掴めない。仮に江戸川に流れているのが夜だとしたら、欄干にもたれる僕も夜の流れの中なのだから距離はそうないだろう。次の瞬間には飛び降りていた。

魔が差すとはこういうことなのか。川に飛び込むと水面と川底、二種類の身体を打つ痛みを味わうことになると知った。想像よりも距離があったらしく、着水時の張り手を食らったような痛みは二度と味わいたくない。

江戸川にはしっかり水が流れていた。そして急速に体温を奪おうとしてくることを学んだ。緩やかに見えていたが入ってみると案外簡単に流されていく。入り慣れた海水とは勝手が違うし、ジーンズとダウンが水を吸って重い。
だけど僕は大人だから。自分のケツは自分で拭けて当然にならなければならない。声を上げたところで誰も手を差し伸べてはくれない。こんな真夜中、誰も彼もが夢の中で想い人とよろしくやっているだろうよ。


だいぶ流されたが岸に着いた。びたびたな服を軽く絞りながら段差に腰掛ける。絞ったって重いし寒いし気持ち悪い。
携帯も財布も煙草もしっかり水を吸っただろう。きっと無いなら無いで慣れてしまいそうにも思えた。いや前言撤回。煙草は慣れそうにない。

携帯は問題なく動作した。気休め程度だと思っていた防水機能がきちんと働いていることに少々驚きつつ、せっかく動くのだからと地図アプリで最短ルートを調べてみた。
おおむね自分が歩こうとした道が正解だったが、現代のコンパスは大通りを少し内に入った怪しい工場地帯を通り、三つの公園を突っ切るよう指示している。おそらく二度と歩くことのない道だ。であれば一度くらい歩いてみたいと思うのが普通ではなかろうか。


ナビに言われるがまま大通りから逸れて薄暗い細い道に入っていく。道なりに進んでいくとひとつふたつと何を営んでいるのかさっぱりわからない工場が現れた。
どの敷地にも古びた大型車両が並んでいる。しかしここら一帯に人気は全くなく、僕がもう少し華奢だったら口を押さえられトラックの間に連れられ姦されていたに違いない。

不気味な工場地帯を抜けかけると先ほどの大通りが見えた。思うに大した時短にはなっていないのだろう。
左側には古びた壁が続いており「タイヤ売ります」という文言と携帯電話の番号が適当な間隔で書かれている。暴走族の落書きで使うスプレーで書かれているそれを冷ややかな目で見ていた。ここに電話する人なんているのだろうかと。

大通りに合流して再び脇道に入り、まずは大きい自然公園を、そして児童公園、最後は公園というよりもマンションの敷地内のようなガーデンスペースを進まされ、ようやく見覚えのある線路沿いに出た。
おそらく隣駅付近だろう。ここまで約四時間ぶっ通しで歩いてきたわけだが、はじめて疲れを感じた気がする。当然、服は乾かない。底冷えするはずの夜明け前だが歩き続けているおかげで濡れた服を着たままでも身体は暖かい。しかしここで歩みを止めたら一気に熱を奪われることになるだろう。先の方に捉えたコンビニの明かりに首を振り、休むことなく歩くことを決めた。



五時過ぎ、帰宅。ほぼナビアプリの到着予定時間通りだった。四時間半にわたる深夜の散歩を終えた私は、すぐに湯船にお湯を張った。
濡れた服を洗濯カゴに放り、全裸で浴室の椅子にぐったり座り、湯が溜まるのを待った。遠かった、歩いてみると本当に遠かった。疲れが一気にのしかかって来た。なんとも言えない感情の波も一気に押し寄せて来た。

湯船が一杯になったのを見てシャワーを頭から浴びた。熱いくらいのシャワーがとても心地よかった。全身を洗い終え、入浴剤を浴槽に沈めて自分も入る。
生き返った。身も心も全てほぐれていく。人間の身体の構造について知識を持ち合わせていないのだが、じきに僕の身体はどんどん解けていって最後には原形を留めることなく消えてしまう、そんなイメージがぼんやりとした頭にふわっと浮かんで、うやむやになっていった。


気を失っていたようだ。さっきまで温かかった風呂もすっかりぬるくなっていた。再度熱いシャワーを頭から浴び直して出て時計を見ると七時半。ちょうど良い時間だった。髪を乾かし着替えて出社した。



バスに揺られながら昨晩を少し思い返してみた。
昨日はニ月二十五日。奇しくも一年前、京都に発った日である。あの303号室に住み始めた日だ。
あの日の僕はちょうど一年後にこんなことになっているだなんて微塵にも思っていなかった。そう思ったら気が抜けた。まったく、何が楽しくて生きているのか。


親友と二年後に再会しよう約束を交わした。
不本意な提案だった。しかしそうするしかなかった。けれども冷静になってみれば、一年前に意気揚々と飛び出したにもかかわらず無様に生き恥を晒している自分が、二年後にお前に釣り合う立派な姿で戻ってくると約束するなど可笑しくないだろうか。できもしない約束はしてはいけないのに。
でもやっぱりそうするしかなかったんだ。そうしなければいけなかったのだから、無理でもなんでも押し通して辻褄を合わせなければいけないのだ。そのために今できることがあるのかと言われたら何一つとしてないのだけれど、でもやらなければいけないのだ。何もやれないし何の方法も何の救いもないのだけれど、わからなくてもやるのだ。わかりもしないことをやるのだ。な、馬鹿みたいだろう?