303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

中締め

書き溜めた膨大なメモを前に呆然とした。
何も書きたいと思えなくなってしまった。

このメモは不完全なまま完結していた。
不格好なこれをそのまま出せる勇気もない。

今更新しく何かを書く気力もない。
ところで書いたところで何になるのか。



そもそも303号室はとうに出た。
来月になれば1年も前の話になる。

いま、ここで書くことは思いつかない。
当然かもしれない。



これにて、一旦、筆を置く。
これまでに書き上げたものは残しておく。

それでは。

ワードセンス

より多くの言葉を知ろうという気に少し前からなっている。
言葉を知らなければ自分が感じている今の状態を上手く言い表せないからだ。
とはいえ、いまの自分は気だるいのか、鬱々としているのか、はたまた無気力なのか、それとも複合的なものなのか、正直わからない。そもそもわかる気もないのかもしれない。

冗談でよくワードセンスで戦っているなどと言う。
果たして自分にそんなものがあるかは知らないが、重要な要素だとは思っているし常に意識はしている。
ツボ押しは、そこを押すことによって痛みを伴うこともあるが気持ちよさを感じられる。ツボを押すと「ああ、そこそこ」と息を漏らすのは簡単に想像できると思う。
笑いのツボという表現があるが、あれも同じで、「ああ、それそれ」といった具合に笑わざるを得なくなる。ようするに、記憶や感覚の奥まったところにあるものへの作用、いわゆる「効く」というのがそれだろう。ワードセンスというのも結局のところ一緒で、考えもよらなかったが言葉が、この場面状況において出てくる、それが効果的に刺激することで何らかの影響を与える。
つまり、大事なのはマニアックな言葉なんかではなく、誰もが知っているはずだが日常であまり使わないような言葉を選ぶという行為と考えている。これがまあなかなか難しい。

まだ存命で一線級の活躍をしている作家の昔の小説で、名前はないが誰しもが一度は経験したことがあるような感情を、言葉で表現していた。正直しびれた。
えも言われぬ名前のない、しかしながら「ああ、それそれ」と言える感情を、まんま表現してみせ自分の中に眠るそれを呼び起こしてきた。
そういうことができるから彼は一流なのだろうし、自分も少しでも近づけるようにできたらなと思う。

書くことは続けていないと下手になる一方だということを、たったいま思い知らされた。ここ数週間、もっとかもしれないが書くことから離れていた。日々のアウトプット、もちろんインプットもだが、それらはある種のメンテナンスのような気がしてくる。書かなければ感覚は錆びていく。一度錆びついてしまえば簡単には切れ味を取り戻せない。そんなところ。


P.S.
更新自体は3月中旬から今日までなかったのに、書いてない期間を「ここ数週間」と言ったのは、中途半端に書き散らしているメモ程度のものが山程あるからです。
次、山積したメモや近況についてを書こうかなと思います。
書き溜めたものの処理に時間はだいぶかかりそうだなぁ…

プァエ

かつて『プァエ』という阿呆がいた。
いま「プァエ」と名乗っている私は、名前を借りてるに過ぎない全くの別人だ。

彼には勢いがあった。
頑固でわがままで我が強くて強引で自己中心的な性格が次第に人を遠ざけたのかもしれないが、それなりに周りには恵まれていた。
なりふり構わずやりたいことをやるような、そんなところに共鳴してくれる人、嫌な部分を差し引いても目を瞑って仲良くしてくれる人、なんだかんだ気にかけてくれる人が今もなお居てくれているのもまた事実。
自分の評価を正しくできる人は多くないし、少なくとも彼にはできなかった。ただ自分では気付かない良いところも悪いところもたくさんあったのだと思う。でなければ現状の説明ができないのだ。

いま借り物の名を称している私に、彼の魂はない。
月日が経ち、君たちが変わったように私もまた変わっていった。いや、冷静になってしまったのだ。
私自身、彼のことは好きで嫌いだ。あの長らく続けていたキャラクターを、キャラクターと言えど何かを意図的に演じていたつもりもないのだが、愛おしく思う。
冷めた言い方をすれば、面白いコンテンツだった。

きっと周りの方達も抱いているはずだ。いまのプァエと昔のプァエは違う。昔のプァエがプァエだと思ってて、いまのプァエはプァエじゃない。
君たちが親しんでくれていたプァエさん、オリジナルのプァエは本日を以って終了です。

今後はプァエを仮名として名乗るだけの私を、どうぞよろしくお願い申し上げます。

黒夢

昨晩は珍しく、きちんと寝ようとした。
携帯を充電し、目薬を点し、布団をかけて、電気を消す。目を閉じて今日の出来事を思い出したり明日の予定を確認したり、はたまたしょうもないことを考えながら、だんだんと意識が薄れ眠りにつく。そんな当たり前から最近は遠ざかっていた。
いわゆる寝落ちというやつで気付けば寝ている、と言うよりも目が覚めたときにはじめて寝てしまっていたことを知る。電気はつけっぱなし、スマホの画面には書きかけの文章。寝るつもりではないタイミングで寝るもんだから起きたところで昨日の続きという感覚である。
しかしながら寝落ちというのも必ずしも悪いものではない。むしろ合理的とも思える。寝る予備動作をせずノーモーションで寝るというのは非常に時間効率が良い。極端な話、寝るまでにかかる時間はゼロだ。対して意図的に寝ようとして寝るのは時間がかかり過ぎる。目を閉じてからの時間は長短はあれど非常に勿体ない無駄な時間だ。いつまでも寝つけないでいるときは地獄である。


昨晩は布団に潜り込んでから少なくとも三時間は寝られずにいた。この無駄で苦痛の三時間、これだから寝ようとして寝るのは非効率的なのだ。最も合理的なのは寝たいときに寝て起きたいときに起きる生活だと言わざるを得ない。
まあそれは冗談として、しかし無理に寝ようとして三時間も眠るために奮闘するくらいなら起きていたほうがよっぽど生産性があるわけで、生活スタイルや体質などを考慮せずに決められた出社時間はナンセンスな気もしなくもない。まあフレックス制がとれるならばその方が賢いのではないかと思うだけだ。言い始めたらキリがないが、何故に多くの企業が週休二日で七時間前後の労働と定めているのか。その決定に至る根拠はどこにあるのか。まさか「みんながそうだから」と言うわけではないよな?
平成ゆとりの戯言はさておき、いまの私にとって寝ようとすることは非常に困難である。


三時間以上かけてようやく寝たというのに、三時間程度の睡眠で目を覚ましてしまった。ゆえにとても不機嫌である。ただ睡眠時間が短いだけならまだしも、ふざけ倒した夢に起こされたのは腹に据えかねる。
夢の話をしたところで聞かされた側はだいたい「だからなに」と思うだろう。なので手短に端的に言うと、口論の末に喧嘩した話である。

自転車に乗っていると前を走る男が無意識だろうが邪魔をしてくる。それに腹を立て、信号待ちで苦言を呈すると男はヘラヘラした態度を取ってきて更に苛立つ。
どこか見覚えのある男、だが名前は出てこない。逆に男は私を知っているかのように私の知人の名前を出しながら話してくる。お前は誰なんだよと、頭の片隅にある小学校のアルバムをめくり、渡辺か?末廣だろ?猪狩だよな?と問うも不正解。
話は平行線になり、ギャラリーも増える。私はしきりに近くに見える公園の裏で話そうと誘う。低い声で圧をかけるように凄んだ。すると男の表情が曇り出し、そこに勝機を見出した私はここぞとばかりに詰め寄ろうとすると男は手を出してきた。それをビンタだけで応戦して、目を覚ました。


なんというか、サイコである。
フロイト的に言えば夢は抑圧された無意識的な願望らしいから、自分自身こんな夢を見てしまったことを恥ずかしく思う。ただビンタだけで応戦する意味は正直知りたいと思い、夢占いを検索してみた。まあ夢占いなのだが。

知らない人とは自分自身の分身であり、知らない人と喧嘩することはつまり自分自身の嫌な面から目を背けたい、否定したいとのことらしい。嫌いな人を殴るのは対象、この場合だと自分自身の嫌な面に対するストレスの発散となる。大勢がいるというのは多数の問題が複雑に絡み合っていること。喧嘩に勝つのは自分が対象、つまり自分自身に勝つということらしい。
そしてビンタ。ビンタの夢占いは思いのほか充実していて驚いた。知らない人へのビンタは自分の嫌な面に対するストレスや改善したいという気持ち、とのこと。

バーナム効果というものがあるらしいので鵜呑みにはしませんが、正直に言うと何となく直面している問題に近い内容ばかりであった。例えば父や母と喧嘩した夢に対しては何の思うところもない、というか当てはまる要素がまるでなかったので多少は参考にしてもよいのかなと思う。
上記内容をまとめると、今現在抱えている自分自身の目を背けたいほど嫌な面や複雑な事情にストレスを感じており、そのストレスの発散、改善の気持ちが強くあり、打ち勝とうとしている。
勝ち方にもひとつあるらしく、スッキリ完勝したならば問題解決の吉夢であるがモヤッとしている場合は言葉通りモヤモヤした解決になるかもしれないとのこと。


まあなんだ、なんとなく見るべくして見た夢なのかもしれないと思えてきた。睡眠を妨げたことを許しはしないが、改めて自分の置かれている状況を再確認できたような、そんな気がする。
渡辺だか末廣だか猪狩だか知らないが、もしまた夢に現れたそのときはボッコボコのギッタギタにしてやんよ。そして土管の上でリサイタルやるんだ。Suchmos歌うからお前絶対に来いよ。
ドラえも〜〜〜ん、ジャイアンのリサイタル行きたくないし、僕のストレスはしずかちゃんのお風呂覗ければ二つの意味でスッキリするからどこでもドア出してよ〜〜〜
しょーがないなぁぁ〜 T E N G A〜(テッテレー

Suchmosを 歌うジャイアン 見たくない
見たい抜きたい しずかのおふろ』

友蔵、心の短歌




追記:黒夢のほうがカッコいいけどSADS

うまぴょい伝説

モーニング娘。の『LOVEマシーン』と『恋愛レボリューション21』、はっぱ隊の『YATTA!』を、平成の“ええじゃないか”だと論じる人物がいる。私は腰痛博士と呼ぶが、彼の視点や考察はたしかに鋭く、三曲とも沈み行く世を憂いつつ底抜けに明るくキャッチーな振り付けで踊る。当然、私もこの論を支持しているわけだ。

昨今、電波ソングなど珍しくない。が、ここで『うまぴょい伝説』である。世界情勢がどれだけ深刻でも、どんなに辛い境遇にあっても、ひと目なんて気にせず「うまぴょい♪うまぴょい♪」してれば万事解決だろう。ひと度「うまぴょい♪」したらたちまちみんな「うまだっち」である。

『うまぴょい伝説』の作詞者はこの曲の歌詞を、ワインを飲んで裸で書いたと聞いた。とんでもない逸話である。であるならば我々もワインを飲んだうえで全裸で「うまぴょい♪」するべきなのではなかろうか。酒で嫌なことなど忘れ、生まれたての姿で、頭からっぽのまま「うまぴょい♪うまぴょい♪」踊る……これ以上の現実逃避などあるだろうか。
これこそ、この『うまぴょい伝説』こそ、令和の、いや二十一世紀の“ええじゃないか”なのではなかろうか。

余談であるが、どうにもならない事態を目の前にし、現実を直視できないでいる私は、ウマ娘によって首の皮一枚繋がっている状態である。冷蔵庫の中に何もないことに気付き家を出たが、脳内では絶えず「うまぴょい♪」している。一種のドラッグだ。「うまぴょい♪」していれば元気になった気がする。『うまぴょい伝説』は精神を安定させる。

気付けば左手はワインを握っていた。我に返り棚にそっと戻した。