303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

霊感少女

幼い頃から霊感少女を興味深く思っていた。
私にはそういったものがまるでない。彼女は何も無いところを指して居るとか喋っているとか言うのだ。これがハッタリや出鱈目であったとしても確かめようがない。
正直、気味悪いと思ったこともあるが、霊感が本当にあってくれたほうが幾分かマシだと思っていた。呼吸をするかのごとく平然と言うそれが嘘だった、と考える方が背筋が凍りついてしまうもの。子供ながらそんなことを思いながら彼女に目を奪われていた。


私はまるで何も感じない。とはいえ嘘だとも思っちゃいない。むしろスピリチュアルな話はわりかし好きな方だと思っている。
無駄に綺羅びやかなオバサンがFacebookアメブロで募集かけているような胡散臭いセミナーも、見た目は気色悪いが中身は全否定できないような気もしなくもない。具体的には言い表せない、しかしなんとなくだがたしかにそこにある。そんなものをどうにか説明しようとした成れの果て、なのではないかと私は思う。

とはいえ引き寄せの法則なるもの、あれなんて自己暗示だとか潜在意識だとか少し脳科学寄りの話で言うことも可能なのではないかと素人的には思うわけで。まあ言霊というのもよく聞きますけど。
しかしまあどうしてアメブロキラキラオバサン達はあんなにもわざわざスピった形にしているのか私には理解できない。


百聞は一見に如かず。
わりと好きな言葉のひとつなのだが、なんとも皮肉というか。トリックアートで思いっきり騙されアホ面で驚き喜んでいる人間の目および脳。うろ覚えでソースも不明だが、五感で知覚する情報の約8割が視覚によるものと記憶している。ようするにガバガバなんですよね。
恩師は、美しく見える女性が本当に間違いなく美しいか確かめるにはどうしたら良いか、という問を学生に投げかけた。学生は近付いてまじまじとくまなく観察すると答えた。恩師は言った。幻かもしれないのだから直接触れなければならないと。身体のパーツ全てを指で触れ、その情報をもとに脳内で立体図を描かなければならないと。
まあ、実体があるものはそれでいいだろう。

私自身、学がないため知識のない方向に話を進めるのは避けたいのだが、今回ばかりはやむを得ない。
実体のない、本当はあるのかもしれないが普通には見えないもの。質量や体積のない、というのだろうか。よくわからない。魂、精神、心……なんというかわからない。
つまり目では見えないそんなものの扱いについて。



双極性障害、私が7,8年前に診断された病名。
あえて言う必要もないし、言ったところで何も変わらない。それにまあわからないだろう。わからないから理解もない。病気に限らず、表面に現れなければ誰もわからないんだよね。色んなマークを制定して目印を付けるようになったのは合理的だと思う。

双極性障害はいわゆる躁うつ、イメージはしやすいと思う。散財など破滅的な行為までいく病的な高揚と、病的な抑うつ。それでもまあ理解は得られない。
そもそも自分でもよくわからないというのが本音で、昔はどこからが病的なのかという境界がわからなかった。特に躁。最近なんか元気だなぁという感覚。


私がしたいのはそういう話じゃない。
カニズムとしては脳の神経伝達云々らしいとはいえ、薬を信用してはいなかった。プラシーボ効果、そんなのだってある。

不眠症を訴える友人に駄菓子屋で売っている水色の瓶に入ったラムネ菓子を渡し、睡眠剤と同等の成分があるから寝たい1時間前に2錠をぬるま湯で飲んでみろと嘯いたところ彼の不眠は改善された。数ヶ月後に旅行に行ったときもカバンから水色の小瓶が見えた。実話である。

山手線ゲームで序盤に負けが込んだ後輩の罰ゲームを途中からバレないよう水に替えたところ、酒のときと何も変わらずそのまま水を飲んで静かに潰れていった。翌朝、誰よりも健康的な顔でいて水を飲む大切さを知った。実話である。

思い込みや自己暗示、催眠ほど怖いものはない。病は気から、これもある程度正しいと思う。だから自分の症状に診断された病名も、そう言われたがゆえに自分が病気に近付いていくかもしれないというのを危惧して考えないようにしてきたのはある。


だが、ここに来て私がこれまで飲んでいた薬はちゃんと効いていたんだと思い知らされた。ひどく後悔しているが、病院に行く金は最優先で用意しておくべきだった。

薬が切れて数週間。頭は常に靄がかっていて、集中ができない。書きたいことがあってもまともに書けやしない。この文章だってまともに書けている気がしない。この一つ前と二つ前も書いたものも全く書けていないし、内容も内容だったのでツイートしなかった。でもさすがに逃げるのはよそう、今日はツイートする。

話のテンポもズレているように感じる。自分のものが自分のものじゃないような感覚。思考は完全に止まるか、脈絡なく支離滅裂に広がるかの二択。判断が鈍い。正確な判断など下せそうにない。すごく寝たあとすごく起きてまたすごく寝る、イメージだが消防士のような睡眠状況。食事もそんなかんじ。

控え目に言っても異常。さすがに変だと気付いたし、これまでだんだんと治ってきていたわけではなく、ただ単に薬で抑えられていただけなんだと知った。


でもびっくりした。
欠勤の理由と体調の説明を今書いたのと同じように上司にしたら、「会話もできてるし今はもう全然問題なさそうだね、安心したよ」と言われた。
良い上司だからこそ、感情を咀嚼するのに時間を要した。無理もない、だって見えないんだもの。
上司のヘルニアはその痺れから動かしにくそうな足を見てわかるけど、私のは見えない。見えないのだから脳の神経細胞あたりを指差したって意味わからないでしょう。

現在進行系で訴えていても周りからは普通に見えているというギャップは苦しかった。まあ、普通扱いしてもらえることも、時に安心材料になるときもあるのだが。


自分が病気だと思って生きていないし、病人扱いされたいわけでもない。当然ながら理解されない苦しみは酷く耐え難いけれども、理解してほしいと願うのはわがままである。

見えないのだから仕方がない。自分自身もわからないのだから仕方がない。だけど現にあるこの異常な状態も仕方ないで済ませるには荷が重過ぎる。早くどうにかしたい。
そのために病院に行くための金を作らなきゃいけない。金を作るためには健康でなければならない。健康になるには病院に行かなければならない。この最悪な循環、ハメ技の一種と思っている。よくヘラヘラしていられるねって言われたけれど、そうしていないと保ってられないよ。まともに考えたら怖いもの。



でも何が一番怖いかと言われたら、薬を飲んだら全部普通に戻っていくところなんだよね。
私の思考や判断といったものが、薬で元に戻るというのなら良いのだけれど、もし仮に、異常な今が本当だとして強制的に好ましい在り方に戻されると考えたらどうだろうか。
私の思考とはなにか。感情とはなにか。わからなくないか?

冗談ですよ、
こんなクソみたいな状態が正しくてたまるか。

約束

じゃあ二年後。達者でな。



いつも一緒に飲んでいた350mlの缶チューハイを片手に夜道を歩いた。餞別としてこれを渡してくるあたりが相変わらず憎い。終電を逃した夜はまだ寒く、冷えたレモンサワーを持つ手の感覚は酔ってもいないのにほとんどない。

自宅まで22km、歩いておよそ四時間半。そして今日は日付が変わって金曜日。帰宅だけできりゃいいってもんじゃない。相も変わらず阿呆らしいね。早速、もらった缶を開けた。飲まなければやっていけないさ。


彼の家には何度も邪魔していた。一人で住むには少し広いくらいで、綺麗に整頓された居心地の良い部屋。壁にマスキングテープで“創生樹”が描かれているのも個人的には好きだった。通い慣れているはずなのに、やはり車と徒歩では全く違う光景だ。愛車で一瞬だった道のりも、歩いてみるとあまりにも冗長に感じられる。

江戸川に架かる最も新しい橋の上。こんな時間にこんな場所を歩いている物好きなどいるわけもなく、一人淡々と緩やかに弧を描き岸と岸を繋ぐ建造物をゆく。暗闇で正確にはわからないが、左に架かっている橋を見るに案外高いところを渡り歩いているのだわかった。

橋の中央あたりまで来ただろうか。欄干に手をつき酒を飲み干した。そして下を見た。
川の色は夜の闇と混ざり何色をしているのかわからない。夜の江戸川には夜が流れているのかもしれないとさえ思った。距離感も当然ながら掴めない。仮に江戸川に流れているのが夜だとしたら、欄干にもたれる僕も夜の流れの中なのだから距離はそうないだろう。次の瞬間には飛び降りていた。

魔が差すとはこういうことなのか。川に飛び込むと水面と川底、二種類の身体を打つ痛みを味わうことになると知った。想像よりも距離があったらしく、着水時の張り手を食らったような痛みは二度と味わいたくない。

江戸川にはしっかり水が流れていた。そして急速に体温を奪おうとしてくることを学んだ。緩やかに見えていたが入ってみると案外簡単に流されていく。入り慣れた海水とは勝手が違うし、ジーンズとダウンが水を吸って重い。
だけど僕は大人だから。自分のケツは自分で拭けて当然にならなければならない。声を上げたところで誰も手を差し伸べてはくれない。こんな真夜中、誰も彼もが夢の中で想い人とよろしくやっているだろうよ。


だいぶ流されたが岸に着いた。びたびたな服を軽く絞りながら段差に腰掛ける。絞ったって重いし寒いし気持ち悪い。
携帯も財布も煙草もしっかり水を吸っただろう。きっと無いなら無いで慣れてしまいそうにも思えた。いや前言撤回。煙草は慣れそうにない。

携帯は問題なく動作した。気休め程度だと思っていた防水機能がきちんと働いていることに少々驚きつつ、せっかく動くのだからと地図アプリで最短ルートを調べてみた。
おおむね自分が歩こうとした道が正解だったが、現代のコンパスは大通りを少し内に入った怪しい工場地帯を通り、三つの公園を突っ切るよう指示している。おそらく二度と歩くことのない道だ。であれば一度くらい歩いてみたいと思うのが普通ではなかろうか。


ナビに言われるがまま大通りから逸れて薄暗い細い道に入っていく。道なりに進んでいくとひとつふたつと何を営んでいるのかさっぱりわからない工場が現れた。
どの敷地にも古びた大型車両が並んでいる。しかしここら一帯に人気は全くなく、僕がもう少し華奢だったら口を押さえられトラックの間に連れられ姦されていたに違いない。

不気味な工場地帯を抜けかけると先ほどの大通りが見えた。思うに大した時短にはなっていないのだろう。
左側には古びた壁が続いており「タイヤ売ります」という文言と携帯電話の番号が適当な間隔で書かれている。暴走族の落書きで使うスプレーで書かれているそれを冷ややかな目で見ていた。ここに電話する人なんているのだろうかと。

大通りに合流して再び脇道に入り、まずは大きい自然公園を、そして児童公園、最後は公園というよりもマンションの敷地内のようなガーデンスペースを進まされ、ようやく見覚えのある線路沿いに出た。
おそらく隣駅付近だろう。ここまで約四時間ぶっ通しで歩いてきたわけだが、はじめて疲れを感じた気がする。当然、服は乾かない。底冷えするはずの夜明け前だが歩き続けているおかげで濡れた服を着たままでも身体は暖かい。しかしここで歩みを止めたら一気に熱を奪われることになるだろう。先の方に捉えたコンビニの明かりに首を振り、休むことなく歩くことを決めた。



五時過ぎ、帰宅。ほぼナビアプリの到着予定時間通りだった。四時間半にわたる深夜の散歩を終えた私は、すぐに湯船にお湯を張った。
濡れた服を洗濯カゴに放り、全裸で浴室の椅子にぐったり座り、湯が溜まるのを待った。遠かった、歩いてみると本当に遠かった。疲れが一気にのしかかって来た。なんとも言えない感情の波も一気に押し寄せて来た。

湯船が一杯になったのを見てシャワーを頭から浴びた。熱いくらいのシャワーがとても心地よかった。全身を洗い終え、入浴剤を浴槽に沈めて自分も入る。
生き返った。身も心も全てほぐれていく。人間の身体の構造について知識を持ち合わせていないのだが、じきに僕の身体はどんどん解けていって最後には原形を留めることなく消えてしまう、そんなイメージがぼんやりとした頭にふわっと浮かんで、うやむやになっていった。


気を失っていたようだ。さっきまで温かかった風呂もすっかりぬるくなっていた。再度熱いシャワーを頭から浴び直して出て時計を見ると七時半。ちょうど良い時間だった。髪を乾かし着替えて出社した。



バスに揺られながら昨晩を少し思い返してみた。
昨日はニ月二十五日。奇しくも一年前、京都に発った日である。あの303号室に住み始めた日だ。
あの日の僕はちょうど一年後にこんなことになっているだなんて微塵にも思っていなかった。そう思ったら気が抜けた。まったく、何が楽しくて生きているのか。


親友と二年後に再会しよう約束を交わした。
不本意な提案だった。しかしそうするしかなかった。けれども冷静になってみれば、一年前に意気揚々と飛び出したにもかかわらず無様に生き恥を晒している自分が、二年後にお前に釣り合う立派な姿で戻ってくると約束するなど可笑しくないだろうか。できもしない約束はしてはいけないのに。
でもやっぱりそうするしかなかったんだ。そうしなければいけなかったのだから、無理でもなんでも押し通して辻褄を合わせなければいけないのだ。そのために今できることがあるのかと言われたら何一つとしてないのだけれど、でもやらなければいけないのだ。何もやれないし何の方法も何の救いもないのだけれど、わからなくてもやるのだ。わかりもしないことをやるのだ。な、馬鹿みたいだろう?

降伏

私が握りしめている薄汚い紙に、
私の生殺与奪の権を握られている。

乾いた笑いすら出てこないが、
その歪な様相はこの上なく滑稽だ。



78億人全員参加のマネーゲーム
「今日は皆さんにちょっと殺し合いをしてもらいます」

労働者は時間、身体、労力、その他諸々を供し、精神を擦り減らして手垢まみれの紙切れを手にする。

同時に金は金で増える。金を金で生む。
アダムとイブの時代から育まれてきた営みを考えてみても、物理的な法則を考えてみても、こんなの狂っている。

金がなければ人権はない。
人間に本質的な価値などなくて、価値があるとされる人間の価値があるとされる所以は、金になるからだ。
その能力が、才能が、特技が個性が美貌が体力が金になるから、価値があるに過ぎない。
金のない人間に、金にならない人間に価値などない。

忘れるなよ人間は動物だ。
高度な文明を築こうが弱肉強食の世界。価値のない者は淘汰される。いたってシンプル、単純明快。
金を持たなきゃ、労働力になれなきゃ、ひっそりと息絶えるだけ。

薬がなければまともに働けないのに医療費すら持ち合わせていないとしたら。出勤しようにも交通費すら持ち合わせていないとしたら。金を稼ぐためにする仕事をするための金は、どう工面すれば良いというのだろうか。

「計画性を持って使いなよ」
「自己管理くらいできないとさぁ」
「しっかり反省して心を入れ替えて」

その言葉、一生、忘れねえからな。

別に責任転嫁したいわけではない。
正当性を主張したいわけでもない。
身から出た錆。その一言で済ませられても仕方ないことくらいはわかっている。しかし、それで済ませたくはないほどのことをここまでやってきた。
わずかな弱音や甘えすらも許されないのか
情状酌量の余地すら与えてはくれないのか。
派手な暮らしなんか一度として求めていない。
足るを知った質素で慎ましい平穏な生活を望むことすら叶わないのか。
今の生活ですら贅沢だというのでしょうか。



あと残り僅かな過去を清算させてもらえさえすれば丸く収まるのに、それすらもさせてはもらえないのか。

8年前。たった20万の過ち、だったと思う。
それが数十倍になったのも理由があって。
いや、言い訳に過ぎないか。
誰にも何も理解もされず、ああ頑張った頑張った。
ようやくあと少しまで来たのに。

70万。あと少しと言えど大金。
でも、これだけあれば丸く収まる。
働いていけば安月給だろうとコツコツ積み重ねれば無謀な金額ではない。なんなら真面目に踏み外さず堅実に生きてきた同年代なら持っていると思う。
だけど遠い、遠すぎる。

携帯は止まる、家賃も滞る、催促はやまない。
薬はもう切れる。バスで20分の通勤も徒歩になる。

いまここに70万さえあれば、
過去を清算して本当の意味で新たな生活に踏み出して軌道に乗せられるのに。

色々と詰んで猛省した去年は禊の一年。
今年からは、と思った矢先。
本当の詰みとは、詰んだ先の詰み。
あと一歩及ばず。といったところか。



昔、死ぬ気がしないと言ったことがある。
それは間違いじゃないし、今もなお死ぬ気がしない。
きっと死にもしない。
縁は切れてるとはいえ親族や友人に申し訳ない。

生きる選択肢はあると言えばあるけれど、もうそれは完全にいわゆる普通の生活を捨てることでもあり、元に戻れることはまずない。
その選択を取ろうとしないことがそもそも強欲で傲慢だと言われてしまえばおしまいなんだけれども。

でも、本当に生まれて初めて自分の生死というものを強く感じたのはたしかで。
薬をもらいたくてももらえない、通勤すら困難を極め、正直ろくに食べてもいない。



資本主義社会において、金は命も同然。
命がないということは言葉通り、死である。

正直、めちゃくちゃダサいと思う。
桁違いの金を持ってる人だって腐るほどいるというのに、自分は金を持たないことによって悩んでるの、とんでもなくダサい。
実際に貧しくて死んでいる人もいるわけで、そこに関してはダサいとか思ってないのだけれど、自分のこととなればとても阿呆らしく思う。

少しくらいよこせと言いたいわけじゃない。金を持っている人はそれだけの価値がある人で、人並み外れた努力をしたり頭を使ったりした人で、その対価なのだから。
でも一泊数十万する部屋をたまにしか使わないのに一年中押えている爺さんの話などを聞いてしまうと、その二泊分で今の苦悩がすべて解決してしまうんだよなぁと阿呆らしくなる。

阿呆らしい。非常に情けない。

まだ人生長そうなものだけれど、
早くも完全に敗北者の側なんだなぁと。



裏話もなにもなのだが、
序盤は今の気持ちを少しでも楽にしたいと思い、エンタメ色強めの作品的にして俯瞰的に嗤えるように書こうとしていた。
だけどダメだった。途中からもうただの恨み節みたいになってしまった。つまらない、読み物でもない、ただの日記。
発憤図書にもならない、人様に見せるものでもない、ただの駄文。

でもここまで書いてしまったのだから、誰かの何に役立つかはわからないけれど、何かしらの何かが何かあればそれはとりあえず幸いです。

夕暮れ時の快速列車は何を乗せて走るのか。草臥れたスーツの背中、大きな紙袋をぶら下げた左腕、私の足りない脳みそ。そんな有象無象を無造作に詰め込み夜へ向かって揺れ動く。
強い西日を背に中吊り広告に目をやる。何か理由があるわけではないが、ただ漠然と、以前に見たものと比べ雰囲気ががらっと変わったように感じる。まあ無理もないか。電車で通学していたのも気付けば3年も前の話。


話し声の大きな二人組が乗車してきた。そこでイヤホンがないことに気付いた。本を忘れた、携帯の充電がない、そんなときのやるせなさをふと思い出した気がした。
まったく耳とは原始的な器官だ。目は閉じればいい、鼻は呼吸を止めればいい。なのに耳だけは手や物を使わなければ機能を制限することができない。聞きたくない声や音くらい誰にだってあるはずなのに。喧騒の中で生きざるを得ないのが現代人なのに。あまりにも前時代的過ぎるんだ。


「次は千葉、終点千葉駅です」
日がすっかり傾いた九番線のホームに降りる。その足元から這い上がってくる冷気は全身を震わせた。春の訪れを感じさせた日中の陽気は嘘だったのだろうか。不機嫌になりながら家路に急いだ。





絶対的なものはないということだけが、この世における唯一の絶対的なものだと主張している。それならば死はどう考えるのかと反論されるが、それは自分が死んだことのある奴のみ言えることだ。いま一度自らの人生を振り返り、死んだ覚えがあるならば素直に認めてやる。
暑い寒いも、美味しい不味いも、好き嫌いも、すべて相対的だ。そのもの同士の、なんとなくある基準や現状のようなものとの比較。不変の価値なんてものはない。この世は可変的で相対的なのだ。
もっとも、自らの心がそのまま世界なのだと、私は考えているわけだが。


上着の右ポケットから鍵を取り出す。そのときにオイルライターとぶつかって鳴るカチャカチャとした小気味よい金属音は悪くない。鍵穴に差し込む音も、解錠時の音も。その音には帰宅したという安堵感も含まれているのだろうね。
一人暮らしの家はなんとなく寒い。物音ひとつしない暗い部屋に煌々と光るデジタル時計の温度計は18.3℃と表示している。やはり数字ではないのだと思った。暑くても寒かったり、不味くても美味しかったり、嘘であっても本当だったり。そういうものなんだなと改めて感じた。


ベランダに出て、火をつけた煙草の煙を浮かびきっていない半端な月に吹きかけようとしてみた。あと三、四日で満月を迎えそうなその隙間を、この煙で埋めてみたら良いのではないだろうか。遠くでお高く止まっているお月様に心のなかでそう提案してみた。嗚呼くだらない。とある文豪の言葉を拝借するならば『なんとも阿呆らしいかんじ』である。
ため息のごとく吐き出した煙は左側に流れていった。いま私の左には隣家とを隔てる石塀だけが存在する。嗚呼くだらない。気付いてしまった肌寒く感じる理由もまた『なんとも阿呆らしいかんじ』である。





「掘れば掘るだけなんか出てきそう」
「温泉かなにかかい?」
「どちらかといえば石油かな」


錦糸町駅南口の喫煙所でこんな会話を聞いたのは今日が初めてだった。温泉だろうと石油だろうと掘って出てくるなら迷わず掘り進めたいのだが、これは君が私に向けて言ったことだ。つまり私を深堀りすれば面白いものが出てきそうという意味である。この場合の相場は噛めば噛むほど味が出るだろうが、噛まれて味が出るよりも掘られて石油が出てくれたほうが個人的には嬉しい気がする。感性の問題でしかないのだけれど。
アパルトヘイトを敷かれ十数枚のパネルで分けられた喫煙者の収容所。入り慣れたここが新鮮に感じられたのは左隣に君がいたからだろう。バイトに行く前の君の足をわざわざ止めニコチン摂取に付き合わせた身勝手な私は、今日の出来事を思い返しては感傷に浸っていた。そういえばさっきも身勝手に煙草を吸ってしまったな。





レトロな純喫茶に着いた。洋食屋さんから数分の散歩は食後にちょうど良かったのだが、満席で一人男性が待っていた。席が空くまで外で煙草を吸って待っていれば良いだろうと思った。強い風の中、思えばここでも左側にいる君に煙がいってしまっていたんだ。そうしているうちに二席空いたらしく、一人の男性と後から来た一組のカップルが通されてしまっていた。
「ごめんね、煙草なんて吸っていたせいで」
私に言える言葉なんてものはこれしか残されていなかった。


暖かな陽気だった。風さえなければという条件付きではあるが冬の終わりを感じられた。
もう春は近い。それを肌で感じるのも悪くないし、公園でひとりベンチに座り無感情でいたという君をいじるつもりもあり、公園に誘った。もっとも私自身、深夜の国道沿いを徘徊し、手放した愛車のことを思い出して泣きながら帰るような男だ。他人のことなど何も言えないのである。


「仕方ない、隣りに座ってやるから」
茶化して言ったが、実を言えば私がしてほしいことでもあった。季節の変わり目を共に感じることより素敵なことがこの世にあるだろうか。


二人がけのベンチには優しい陽が注ぐ。右側に座った君の視線は私の奥の地面、鳩にあった。その鳩はこの上ない阿呆面をしていた。
足るを知るということはこういうことなのだろうなと、改めて平和な日常の小さな幸せを噛み締めて思った。同時にその平和な日常というものを守るのも厳しく難しいという現実も知っている。というよりも厳しい現実があるからこそ、何もない平凡な一日が素晴らしくかけがえのない日に感じられるのかもしれない。
名前も知らない人の疲れた顔や険しい顔、私たちは互いに毎日それを見せて見せられながら生きているからこそ、こんな阿呆面の鳩を平和の象徴と呼ぶのかもしれないね。





日が陰り場所を移動したのも束の間、あっという間にサヨナラの時間になってしまい喫煙所に来たのである。掘れば石油が出そうというのは今日一日を一緒に過ごした君が抱いてくれた感情なのだから、嬉しいに決まっている。感性の問題と言ったが嘘だ。こうやって順を追って話してみれば私がいかにまともかということがわかるだろう。


同じホームから逆方向の快速電車に乗ることになる。最後まで見送れるのは良いことかもしれないけれど、名残惜しさも堪え難いほどである。どんなに名残惜しくても私にできることなんてたかが知れていて、どんなに頑張っても二つしかない。
一つは、その名残惜しい気持ちも大切に噛み締めて今日の想い出と一緒にしまっておくと決めること。
もう一つは、「また会いたい」と口にすること。


私はできる限りのことをして、夕暮れの快速電車に乗った。





煙草の火を消し部屋に戻った。さっきよりも暖かく感じられたが18.3℃のままである。もちろん外気に触れていたからその差もあるだろう。

しかしそれだけではなくて、先ほど感じた肌寒さの原因が鮮明にわかったことが何より大きいのだ。さっきまで隣に居てくれた人がいない、その差だ。

それに気付いたからこそ、今日が素晴らしい一日になったということを改めて強く感じた。想い出として私の中にたしかに残る。そしてその想いが私に寄り添う。
だからかな、いま暖かく感じられるのは。

書きかけ

定時で仕事終わるのに、帰宅がいつも23時過ぎるのはどういう了見なのか。
まあ、自分がわかってればいいことではある。


通勤のバスで毎日スマホを忙しなくフリックしてはいる。ただ、車酔いで10分少々で断念せざるを得ないのだ。
乗換検索では21分、道が混雑していれば約30分の絶妙な空き時間であるゆえに勿体ないと感じ、己の三半規管の過敏さを呪いたくもなる。


以前にも申し上げたが、こんなエッセイにもなれない中途半端なエゴの掃き溜めは、基本的に書き始めたらそのままの勢いで書き上げてしまいたい。それに輪をかけるようにして朝目が覚めるために書きたいことが変わってきてしまうのだからたまったものではないのだ。
それゆえに付箋に書かれた申し送り程度でしかない書きかけが散乱している。それこそドラマ等で見られるようなオフィスで物理的なデスクトップの縁に無造作に貼られたカラフルな紙、まさにそれだ。
まったく躁気質にも程がある。しかしあれもこれもと手を出し、それら全てを完璧に仕上げたゲーテという男は、現代を生きていたとしても間違いなくスーパースターと持て囃されていたに違いない。



今朝書こうと思ったのは、毎月恒例になりつつある友人の“禊”という名の風俗に同行する件についてだった。ちょうど昨晩の話になる。鉄は熱いうちに打てということだ。
まあ、毎月タダ飯食わしてもらってるわけで、いささか恐縮してはいるものの友人たっての希望なのだから同行を断る必要もないし、むしろ楽しまなければ逆に友人にも嬢にも失礼だ。こうして文章にして残しておくのもまた、私なりの礼儀というわけである。


60分1万1千円。これが高いのか安いのか相変わらずわからないが、心ひとつで安くも高くも思えるということだけは理解している。何だってそうだろう。惰性でやることほど不毛なものはない。
ただ一発の射精に1万1千円と考えるのは間違いだ。射精単位で換算するならば自宅でひとり励む以上のものはないのだから。射精に対する付加価値、つまりドラマ性やエンターテインメントを愉しめなければ極論行く意味はないのだ。
むしろ射精がエンタメの副産物のように感じられるときもある。ただし射精を蔑ろにしてしまうことだけはあってはならない。大意を見失った瞬間、人はいとも簡単に崩れ落ちていく。


全裸になったとき気付いてしまった。ニ週間前に右脚だけに除毛クリームを塗りたくったことを。
いま思えばYouTubeの広告で頻繁に出てくるアレを譲り受けたのが終わりの始まりだった。幼き頃に進研ゼミから定期的に送りつけられてきた布教マンガを流し読みして育った私としては、あの胡散臭い広告も結構な頻度で見入ってしまう。それゆえ除毛クリームにも当然興味をそそられており、試してみたいとは常々思っていた。それがひょんなことから手に入ってしまったのだから実験したくもなるだろう。
広告で謳っている効果の真偽を確かめるには自らの身体で対比実験をするしかあるまい。やることはいたって簡単。除毛クリームを右脚だけに塗り、左脚はそのままにする。そして一ヶ月後どうなっているか確認をする、それだけ。
正直、実験結果を確認するためだけに生きていると言っても過言ではない。それほどまでに楽しみにしているのだが、この惨状を嬢に見られてしまうのは非常に恥ずかしかった。だからといって自らカミングアウトして予防線を張るような行為は店側が許しても私が許さない。フェアプレーの精神に則り、何気ない顔をして嬢に醜態を惜しげもなく晒すことにした。


日頃から最悪の想定をしておくことを推奨している。人生万事パルプンテ。何が起きるかわからない。傷付かずに生きたいのならば、石橋は叩いて壊せばいいし、外堀は埋めて山にすればいい。
この場合のワースト3から順に発表すると、3位は引かれる。2位はシンプルに苦笑い。1位は見て見ぬ振り、だ。どう考えても弁明の余地すら与えてくれないワースト1位は地獄以外の何物でもない。
結論から言うと嬢は「前に右脚だけ大怪我でもした?」と言ってきた。私は「そうなんすよ」と答えた。


どうやら私は昔、右脚に毛が生えてこなくなるほどの大怪我を負っていたらしい。初耳だった。



ひと通り終えたあと嬢が聞いてきた。
「セックスしてて勝手に途中で抜かれて『もう疲れたから口か手でして』って言われたんだけど、そんなことありえる?」
ありえないね、と私は答えた。


じゃあ、と続けて嬢が聞いてくる。
「一回だけ一緒にイけたとき『やったね!』って言ったら、『オンナってこういうのがいいんだよな』って言われたんだけどどうなの?」
ひどいもんだね、と私は答えた。


だよねだよね、と調子づいた嬢が言う。
「若い子ってみんな性に貪欲さがなくなっていってるのかな? 前に来たお客さんも『友達とジャンケンして勝ったオレがこっち(メンエス)に来て、アイツはソープに行った』って言ってたの! 普通に考えたら勝ったらソープでしょ?」
いやそれは違う、と私は食い気味に答えた。


何もわかっちゃいない。
世の中には自分は全裸で直立不動で、普段着の嬢にただひたすら無言で真顔で手だけで導かれたいという変態もいる。私の友人だ。
彼の主張はよくわかる。プライベートとお店は全くの別物で、似て非なるものだと。家で食べるインスタントの袋麺はたしかに美味しいが、ラーメン屋にそれを求めないだろう。上手く例えられている気はしないが、まあそういうことである。


今回もまたひとつ収穫があった。
人間、こうして成長していくんやろなあ。