303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

シェルター

実家に戻り2ヶ月ちょっと、今度は横浜に越してきた。
諸々を清算するための仮暮らしである。
見込みが出来たらすぐにでも飛び出してやるつもりでいる。


この数ヶ月で「足るを知る」ことを知った。
これまではあれもこれも欲張って生きていたように思う。金や物だけじゃない。人やコミュニティもそう、自分の意味や価値までもだ。

誰しもキャパシティがあって、それを拡張させることも可能だと思う。だがそれに伴う痛みや苦しみは大きく、それを乗り越えた先にある自分はさぞカッコいいんだろうけれど、果たして本当に必要なのかと自問してみると、案外捨ててしまったほうが良いんじゃないかという結論に至った。
そりゃ誰だって大きな夢を叶えられたほうが幸せだと思う。損得やコスパといった打算的な話を抜きにして考えても、小さな幸せに満足できるなら大それた夢なんて必要ないんじゃないかと、幻想なのではないかと思い始めたわけです。

選んで捨てて削って磨いた先に残る光り輝く一粒の宝石、それが本当に必要なもの。
そしてそのあとに出てくるいくつかの「いやでもあれも捨てがたい」を叶えるための努力は、すべき努力なのだとも思う。


常に色んなものを沢山抱えていたと、今になって気付く。義務として背負っていたもの、将来の漠然とした不安、こうあらねばならないという強迫観念。捨てる決心すらつかなかったそれらをぜんぶ捨ててリセットしてみよう。その第一歩がここ。

神経質な自分がシェアハウスなんてできるはずがないと思っていたが、やはりできそうにない。数日あまりで早くも音をあげている。このストレスフルな状況で書く文章は無味無臭で乾燥しきってるかもしれない。それでも書けるときは書いていこうとは思うのは意地でしかない。
ここを出る日まで勿体ないが日々をただただ消化するだけになりそうな気もしているが、一時避難場所が快適であっても困る。不快だからこそ居心地が悪いからこそ、一刻も早くここを出てやろうと思うわけで、逆説的だが大きな原動力になっている。

この雨風をしのぎきったら、狭くも小綺麗なまともな部屋に引越して、しっかり働いて慎ましく生きたい。

願うのはそれだけです。