303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

中指

正当に評価されるなんてことは童話の世界のおはなしで、まるでサンタクロースを信じなくなるように大人になるにつれて現実を知る。
だけど乙女がいつか白馬の王子様が迎えに来てくれるのではないかと淡い期待を捨てきれないでいるように、どこか夢見がちな僕らはいつだってあるわけないとわかっていても「そうあってほしい」と願っている。

信じるとは信じたいものを信じたいように信じるだけ。
頭でわかっていても、信じたいものは信じたいんだ。
なのに、それが叶わないと腹に据えかねるのは一体どういう風の吹きまわしなのだろうか。
まったく、逆ギレの何ものでもない。

この際、自己評価がいかに乱暴であるかはさておき、たとえ見誤っているとしても自分の思う自分よりも他者の評価が低かったり扱いがおざなりだったりしたとき、何故にこんなにも怒り狂いそうになり耐え難い苦しみを感じるのか。



とにかく悔しい。
そしてすべてを否定された気分になる。

僕のほうが面白いだろ
僕のほうが良い声だろ
僕のほうが頼れるだろ
僕のほうが僕のほうが僕のほうが僕のほうが

なんでダメなんだよ。
面白くないか? 声そうでもないか? 必要ないか?
なんで? どうして? どこが? 何が? どうしたらいい?

騙し通す気もない見え透いた嘘をつく心理はなんだ。
お前の頭が足りないだけなら構わないけど、それで十分だと思われていたのならば見縊られたもんだ。
ただ、それが周囲の“客観的評価”ってやつなんだ。



血管が2,3本切れる音がするくらい頭にきて、
深い深い溜息をついて「仕方ねえよな」で終わる。
わあわあ喚いたってそれこそなんの意味もないから。

できることは2つあって、
1つは素直に客観的評価を受け入れて納得し、自己評価をそこに合わせること。
もう1つは意地でも抗って、自己評価が正しくて周囲の評価が過小でしかないことを結果で認めさせること。

見返すほかないのだもの。
キレイになって後悔させてやる、まさにこれ。

そのために沸々と湧き上がる怒気を静かに燃やし続けて原動力にし、怒りの炎に身を焦がさぬようあくまで冷静に頭を回し、然るべきタイミングで動いて一気に突き放す圧倒的なイメージ。



言っておいてなんだが、こんなの自己満足の世界でしかないことくらいわかっていて、僕がどうなろうと誰も知ったこっちゃない。
だけど自分にとっては大切な意味がある。

新しい仕事で素晴らしい結果を出して、お祈りメールを送りつけられた企業に「ざまあみろ」と本社の方角に中指立てたところで、先方はなんのメリットもデメリットもなく、何も変わらぬ日常の中で今日のランチはどこにするかを考えるだけだ。

でもそれでいい、それだけでいい。
いや、それがいいんだ。

欲を言えば感謝できたら最高だよね。
「あんたらのおかげでここまでできました」って。



ここまで負け犬根性丸出しのダセェ文章をよくもまあだらだらと書けたもんだと自分でも思う。
ある種とても素敵だと思います。普通の精神状態ならば、こんな衆人環視のなか白ブリーフで踊り狂うような、見せられている側ですら顔から火が吹き出るほどに赤面してしまう恥ずかしい文章を晒せるわけがないのだから。

つまりカッコよく言えば決意表明だ。
有り体に言えば、引き下がれない状況を作り自分を追い込んだのです。
あぁ、気持ちいい。



いつか、これを犯行声明文とする日が来ることを。