303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

夜明け前

死んだように黙り続ける幹線道路沿いを歩いた。
日中の喧騒が嘘のように静寂が包み込んでいる。足元から聞こえる自分の革靴が立てる疲れきった音だけが、声を上げることを許されている。せめて凍えそうなほど寒い風を一身に受け止めた街路樹が鳥肌を立てながら落とした乾ききった葉くらいは、音を立てても良いのではないかと気遣う始末。
熱を吐ききった舗装はすっきりとしていやがる。その吐瀉物は底冷えする暗闇が跡形もなく綺麗に処理したらしい。どうやらここにある唯一の熱は、35.8℃の自分という得体のしれない化物だけのようだった。

喉から両腕が出るほど渇望していた特別な存在でありたいという馬鹿らしいエゴが、思いもよらぬ形で実現してしまったと一瞬は思ったがそれは自意識過剰な思い込みで、ただ空気を読めないでいる異質な存在に他ならないと気付いてしまった。知らなくて良いことは知らないままのほうが幸せなのだとつくづく思った。


寒すぎる現実から逃げるように帰宅したところで、誰もいない部屋が暖かいはずもなくセラミックヒーターをつけた。古すぎる壊れかけの給湯器に文句を言いながら温度の定まらないシャワーを浴びて部屋に戻ると、熱を取り戻してはいたものの風呂上りの身にはやや不快な暖かさになっていた。
穴がいくつも開いた気が滅入る障子を開け窓を見やると結露が出始めていた。窓を隔てていても外のけしからん熱泥棒は、窓越しであろうとお構いなく容赦なく奪い散らかしてくる。窓の外の寒気と内側の暖気との全面戦争が、いままさに繰り広げられているらしい。
勝ったほうが正義であってたまるか。最後は必ず正義が勝つのだ。


眠れない夜はいつだってサティのジムノペディを聴いていた。太宰がカルモチンを愛飲していたように、この旋律こそが私を深い眠りに誘う睡眠導入剤だ。しかし古い睡眠薬は中毒性があり、使っているうちに効き目がなくなってくる。私もまさにそう。サティに寝かしつけてくれと懇願しても、なかなか首を縦に振ってはくれないのだ。
国営ラジオを抜粋して文字に起こしている記事を読んで知ったが、好きな作家は不眠症が多いらしい。川端もそう、カフカもそうらしい。よくいえば『夜を知っている』とも言える、とあった。
最近の流行歌も夜にまつわる題名が多く、なんならアーティスト名にすら夜を含んでいる。私も思う、昼は駄目だ。明るさは刺激であり、それを処理するためにリソースを奪われている気がしてならない。夜が深くなればなるほどCPUの負荷が下がっていくのを感じている。
筆を手に夜遊びしていたいから、夜しか愛せないし、ずっと真夜中でいいのに、と思う。


そんなことを思っていても非情にも朝を迎えるのがこの世界のルール、決して抗えない不文律だ。ならせめてもう少しだけ夜を感じたいと、窓を開けた。火をつけた煙草の青白い煙が勢いよく、じきに終わる闇夜に吸い込まれていく。理科の実験よろしく空気の流れが可視化されたことで、熱泥棒の現行犯をおさえることができた。煙草巡査のお手柄である。

根元の方まで吸った煙草を灰皿代わりの水を入れたペットボトルに入れた。八分目くらいまで入れたはずの水は吸殻に浸み入り、吸殻はお礼代わりにタールで黒く染まった汚水を垂れ流していた。大部分の水はもう吸殻のなかだったのだろう、いま入れた煙草の弱々しい火が消えないでいた。キャップを閉めて密閉すれば酸欠で死ぬ運命のくせに、最期まで生を全うしようと残りわずかな命を燃やしていた。そのさまは捕獲されビンに入れられたホタルのようだった。季節外れの夏の風物詩を感じたのは一瞬だった。力尽きて死んだ。念の為、ペットボトルをくるくる傾けて黒い水で消火した。


窓を閉める。もうすぐ夜が開けるのが見て取れた。夜が朝に侵食されるさまは何度見ても飽きないほど美しい光景なのだが、寂しく儚い。
夜明け前は必ず良い1日を迎えたいと願っている。ただ愛してやまない夜が消えてなくなるのは名残惜しい。でもこれは世界の約束。時間は止まることなく、一方向にしか流れない。理不尽極まりない話だ。まったく。


ジムノペディを再び流し、僕は目を閉じた。

「死にたい」がない

炊飯器が鳴るのを待っている。

「食べたい」と思った瞬間が一番「食べたい」わけであり、「食べたい」と思ってから料理を始めたらいざ食べ始めるときには飢餓状態でない限りは「食べたい」という気持ちのピークを過ぎてしまっている。
とはいえ「食べたい」と思った瞬間に食べられるように作り置きなどの準備をするほどの気もさらさらないし、作り置きしたとて温め直すなどのわずかの手間ですら最高に「食べたい」瞬間を逃している。カップラーメンの3分ですら。
となると「食べたい」と思った瞬間に食べられる条件を満たすのは、こたつの上のみかんくらいなもの。

とは言ってみたものの、せめて白米くらいはラップに包んで凍らせておいてレンジでチンして食べられるようにしておくくらいの手間はかけても良いと思えたから、いまこうして食後であるにもかかわらずふっくら炊きあがるのを待っているわけである。

言うまでもなく、晩ご飯は冷凍してあった米を使った。レンジで軽く温めてるあいだにフライパンにパスタで使うつもりで買ったバターを敷き、残っていた豚バラを悪くなる前に使うしかないため適当に切って全て炒めた。
使い切れないほど余っている長ねぎを、解凍した米とともに肉の入ったフライパンにどさっと入れ、家にある調味料を総動員、つまり味噌とめんつゆで味を整え、玉子を割って再度強火で炒めて完成。
味覇が入ってない家庭のチャーハンなどあってはならないし、エビの入ってないピラフもピラフと呼ぶわけにはいかないという原理主義的な考えがある。そのためコイツを何と呼ぶべきかはわからない。とりあえず『名状しがたき飯』とする。

この『名状しがたき飯』を食べ終え、炊飯器が私を呼ぶまでのこの時間、ふと考え始めたことについて考察を深めたいと思う。
ここまでの余談が長過ぎたのは、早炊きではなく標準でスイッチを押してしまったからである。文句があるなら炊飯器に言ってくれ。



ようやく本題だが、
さっき「死にたいと思ったことがない人の気持ちがわからない」と言われた。
自分がなぜ、死にたいと思ったことがないのか、考えたこともなかったからちょっと興味をもった。
本当にどうしてなのだろうね。死にたくなりそうな要素ならこれでもかというほどあるのに。



かつて、
「全然死ぬ気がしない」
と友人らに言ったところ爆笑を誘った。

私としては大真面目に言ったつもりであり、笑わせるつもりなど毛頭なかった。
それは私が今にでも死にそうな境遇に身を置いていることを知っている彼らには、開き直ったように悟り開いたように見えたのかもしれない。
もしくは死という誰にでも当然訪れる事実に対し、反証不可能なアンチテーゼを唱えたからなのかもしれない。

太陽がいつか寿命を迎える話、度々話すけれど自分自身もいつか死ぬことは頭ではわかっていても、他人の死を見てきていても、今まで自分の身をもって経験してきてないのだから死ぬ実感などない。あるわけがない。
だから「全然死ぬ気がしない」んだ。

死にたいと思ったことがないのは、こういう背景があるからなのかもしれない。死ぬ気がしないのだから死ねる気もしない。だから死にたいと思うことすらないのかと。



逆に私からしたら、死にたいと思ったことがないから死にたい人の気持ちはわからない。

だから的外れなことを言うかもしれないと前置きしたうえで、
死にたいと思った理由って、楽になりたい、明日が来なければ良い、存在価値がない、むしろ存在が迷惑になる、思い通りにならないならせめてもの復讐、投げやりというかどうにでもなれ、みたいなものなのがあるのかなと。
他にもあると思うし、言語化しづらい感覚的なものもたくさんあるとは簡単に想像がつく。

死にたいと思ったことがない側の私としては、例で挙げたような現在抱いているものがイコールで死に繋がらない。
仮に死にたい理由を一元的なものとしたとき、死によって解決できるもの/関係ないものが出てくる。そう考えて主な理由が死によって解決できるものであったとしても、私は死にたいとは思わない。死のうとは思わない。そもそも選択肢にない。
その理由はよくわからないけれど、他人が「死という選択もあるよ?」と選択肢を増やしてくれたとしても「なるほどねぇ」と流しそうなものだ。

と考えていくと、思考回路になるのかな。
思考のクセというか、死に馴染みがないというか。



上述したが、友人らから見ても私の置かれている状況は結構厳しいらしい。自分でもたしかにめちゃくちゃしんどいと日々感じているのだけれど、友人が私だったら少なくとも今の私のようにはいられないという。詳細な説明は避けるが条件だけで言えばまあ酷いものだと自覚している。

じゃあキャパシティの話なのかと言ったらそれもなくはなさそうだけど、なんか違う気もしなくもないというか、あまりそれで済ませたくないところがある。

「その程度で死にたいの? オレなんか云々」と抜かすダサいヤツも数多く見受けるし、受容できる多い少ないは人によって違うのは当然ある。
なんかこう「部活やめたい」と同じ感覚で考えるならそうだろうな。
それに残酷な拷問を受けたり四六時中悶え苦しむような病気を患ったりしたら、私も死なせてくれと思うだろう。死なせてくれ、と思わざるを得ない状況から死にたいと願う流れならば、単純に私が耐え難い苦痛を味わっていないだけであり、キャパの問題で片付けちゃってもいい。

でもなんか釈然としないのは、拷問や病気の「身体的な痛み」で言ってるからなのだろうな。
痛いのは嫌だもの。
私の置かれてる状況により受ける精神的な苦痛を身体の苦痛に変換し、身体的苦痛が及ぼす精神的苦痛、いわば逆輸入的な痛みを受けるシステムがあるならば、私も死を選ぶかもしれない。
だって痛いのは嫌だもの。



思考回路に近いが経験の面はどうか。

適性検査により暴かれたが、私はどうやら感情的で楽観的らしい。そんなことで私を知ったような顔されても困るのだが、そういう楽観的な今の自分を作ったのはきっとこれまでの経験にあると考えている。

昔、学生時代の話だが、あと数万足りないどうしようってなったとき、ほぼ全部どうにかなってきた。全財産(2,000円)突っ込んでジャグ連引くとかね。
どうしようってなってる最中は本当に悩み苦しみ考え過ぎて気持ち悪くなって吐いたことすらある。だけど良くも悪くもどうにかなってきてしまった。ただ先送りにしただけってこともあったけど。

なるようになる、むしろなるようにしかならない、と経験してしまったから、こんな楽観的で無責任でいられるのかもしれない。
何があってもなんとかなる。別にポジティブシンキングをしてるわけではない。どうせ、くらいの感じで見ている。

無責任、というか当事者意識が欠けてるのかもしれない。
自分の行動は神によって運命として決められている、だなんて微塵も思わないけれど、経験的になるようにしかならないと知ってしまったからなのか、なんとなく自分が主体的にどうこうするってのがない気がする。
当事者意識は欠けてるかもしれないが、自我は強いし自意識過剰だし感情的だし、自分に対しての興味関心もある。それは俯瞰しているわけでもなさそう。
立ち位置? 自分の置かれている座標に対して無頓着なのかもしれない。
よくわからなくなってきた。



逆に生きる方からは考えるのはどうだろう。

毛皮のマリーズ『ビューティフル』で志磨遼平が歌っているように、生きて死ぬための人生だと思っているところがある。
漠然として無気力気味に生きているが、元気なときは死ぬときに良い人生だったなと思いながら死ねるようにするのが人生なのかなと思っていたりもする。

近い話でいえば、人生を舞台という感覚を持っている人が多くいるらしく、自分もその感覚がある。
さっきの当事者意識にも繋がるのかもしれないが、起承転結の中で生きているのだから苦しい時期もストーリー上あって然りみたいな思いもなくはない。

ドMな演者なのかもしれない。
そういう悲惨な境遇にある自分がもがき苦しむ様も込みで人生を演じる役者として楽しんでしまっているのかもしれない。
もしくは作った舞台を見て楽しんでいるともいえる。セルフ貴族の道楽状態。

だけど実際、ネタにして人に話すことを考えるならば引き出しは多いほうが良いし、ぶっ飛んだ経験や人がしない経験を話したほうがウケるし、そういう意味では一役買っていると思っている。
破滅しようが人生をオモシロに極振りするのも悪くないのではないでしょう。
良い子はマネしないでね状態。



結局、よくわかんねえや。
わかんないし疲れたから思い付いたこと書き終えたら米をラップに包んで冷凍庫に入れていくよ。もうとっくに蒸らしまで終わっているのだから。



漠然と生きていると言ったが、同じように漠然と死にたいと言っていた人もいた。
まだ生きているから、ぶしつけに何故死ななかったのか聞いてみたら「なんとなく」と言い、生きている理由を聞いてみたら「惰性」と答えた。

面白いんだよね。私もなんとなく、惰性で生きているような節はある。


死にたい明確な理由があった人にも話を聞いた。
死にたかった要因がなくなった今思えば、当時は何を思っていたんだろう、と不思議に思ったらしい。
死ななくて良かったね、と思った。

「行き急ぐ」はよく使うけど「死に急ぐ」はないのかとググってみたら存在した。
私は個人的に死にたければ死んで良いと思う。
自殺もそんな悪いものだとも思っていない。

ただ、さっき覚えた言葉だが「死に急ぐ」ことはないんじゃないかな?とは思うところがあって。

どうせいつかはみんな死ぬ(らしい)。
ならば、それが早いか遅いかだけの違いしかなく、今日死のうが明日死のうが大差はないし構わないと。
しかし逆に言うならば、今日死ぬ必要も明日死ぬ必要も同じようにないと思うわけです。



死にたいという人に対して私は、

私は死にたい人を無理に止めたりはしない。
今日死んでもいい、明日死んだっていい。
でも同じように必ずしもすぐに死ぬ必要もない。
そして私は生きていてくれたら嬉しい。
まぁ私のエゴだ。聞き流してくれていいよ。

のように言ってきた。
死にたいと思ったことがないない人間の言葉なんて意味ないのかもしれないけれど、こんなふうに私は思ってる。



論点まとまらないうえに、何が言いたかったのかもブレブレだけれど、明日の「食べたい」のためにそろそろ米を包ませていただこうと思う。

なにくそ

毎日何かしらに悔しいと感じており、そのたびに奥歯を強く噛み締めてしまうから、そろそろ草食動物スタイルの歯になってしまうのではないかと気が気でない。
仮に草食動物っぽい歯になったら野菜しか食べなくなるのだろうか。いや、ない。

面接の疲れからか黒塗りの高級車に追突してしまう。ことはなかったが、まさに『呑み屋』というに相応しい店に吸い込まれていった。
足取りは米津玄師のLOSERのそれ。Flamingoでも良いかもしれないと一瞬思ったが左半身に致命傷は負っているわけでもないから今回はご縁がなく誠に残念ではありますが貴殿のご活躍を心よりお祈り申し上げます。
自分で書いてなんだが自虐で済まされないほどの痛手を負った気がするよ。頼むから受かってくれ。

後輩をかばいすべての責任を負った私に対し店主、ママが言い渡した示談の条件とは……。


カウンター7席くらいの小さいお店に夕方だというのに人生の大先輩である4人の常連さんがおり、アウェイで場違いな私はちょこんとカウンターの端に座った。
ビールともつ煮を頼んでタバコ吸いながら常連の話に耳をそばだてていたのだが、私くらいの年齢は珍しいのだろう、すぐに話に入れてもらえて秒で打ち解けた。出会って2秒で合体状態。

ママからのボトル入れたら次から安いという“営業”をのらりくらり躱していると、私より上だが若めの男性が入ってきた。
私の隣に座った男性もまた常連で多いときは週6で来店するそうだ。その教師をやっている男性ともすぐに仲良くなり、文学部のトークで盛り上がった。

ちょっとビール1杯飲んで帰るつもりだったが、先生が自分のボトルから3杯くらいごちそうしてくださり、結果安くてめちゃくちゃ酔えてしまった。
お互いに酔ってきたから色々プライベートな話にもなり、その中で日頃から感じていることをつい吐露してしまった。悔しさのあまり唇を噛み過ぎていまや口紅が要らなくなったことなど。


先生は2つの言葉を教えてくれた。
『発奮著書』と『何苦楚』

まず『発奮著書』は読んで字のごとく、心から溢れ出たものを書いたもので、歴史的にもそういった作品は優れてるものが多いと。だから今の感情を書いたり歌ったり喋ったり何か表現したらいいよと。

もうひとつの『何苦楚』は、これなんだ? 仏教?
夜露死苦的な当て字なのかよくわからなかったけど、意味としては『何事にも苦しむことが礎(いしずえ)となる』らしい。
いま書きながら調べてたら野球選手の座右の銘らしい。なるほど、先生めちゃくちゃ野球好きらしかったもんな。
きっと一般的に使われる何糞とのダブルミーニングでしょうね。


すっかりごちそうになったうえに、金言までいただき直帰しなくてよかったなと思えた。
もうひとつ有益だったのは「恐妻家話をしてるのは幸せな証拠」だという話。本当に締められてたら声も上げられないという理由がひとつ、もうひとつは直接的な自慢は煙たがられるから自虐で遠回しに幸せアピールをしているらしい。まさに明日使えるムダ知識である。
また行くとママと先生とほかの常連にも約束して店を出た。

フジファブリック『夜明けのBEAT』のMVで走る森山未來よろしく家まで酩酊しながらよろよろと帰った。
歩道橋の上は誰もいないだろうとちょっとはしゃいでたら向こうからランニングマンが来て気まずい思いをした。こちとらD.E.I.S.U.I.やぞ。
しかしランニングマンって歩道橋をコースにするのね。

そしていま、今日の話を忘れないようにと文章を書いております。
日々くすぶってる気がしてて心穏やかでない感じがしていたけれど、いまはだいぶすっきりできた気がするし、尻に火がついた。
そういやお世話になった教授は「尻という言葉は卑猥だからケツと言え」と主張していた。未だによくわからない。
同じような話を前の記事でも書いた気がするけど、いまのこの感情を糧にして自分のために頑張りたいね。

刃毀れ

研ぎ澄ましてきた言葉の刃は呆気なく壊れた。
刺すことはおろか突き立てることすら敵わぬ。

言葉を失う、とは恐ろしいものだね。
急に頭から思考や意思が消えていくんだ。
言葉で理解してるから言葉が消えたら
そりゃあ当然何もなくなってしまうよね。

記憶が言葉を持たずに
画として感情として現れては消えていく。
それに抱く感情に対する言葉がないから、
ただただ嗚咽を漏らしながら殴られてるだけ。

とても、情けない
と、思いました。

中指

正当に評価されるなんてことは童話の世界のおはなしで、まるでサンタクロースを信じなくなるように大人になるにつれて現実を知る。
だけど乙女がいつか白馬の王子様が迎えに来てくれるのではないかと淡い期待を捨てきれないでいるように、どこか夢見がちな僕らはいつだってあるわけないとわかっていても「そうあってほしい」と願っている。

信じるとは信じたいものを信じたいように信じるだけ。
頭でわかっていても、信じたいものは信じたいんだ。
なのに、それが叶わないと腹に据えかねるのは一体どういう風の吹きまわしなのだろうか。
まったく、逆ギレの何ものでもない。

この際、自己評価がいかに乱暴であるかはさておき、たとえ見誤っているとしても自分の思う自分よりも他者の評価が低かったり扱いがおざなりだったりしたとき、何故にこんなにも怒り狂いそうになり耐え難い苦しみを感じるのか。



とにかく悔しい。
そしてすべてを否定された気分になる。

僕のほうが面白いだろ
僕のほうが良い声だろ
僕のほうが頼れるだろ
僕のほうが僕のほうが僕のほうが僕のほうが

なんでダメなんだよ。
面白くないか? 声そうでもないか? 必要ないか?
なんで? どうして? どこが? 何が? どうしたらいい?

騙し通す気もない見え透いた嘘をつく心理はなんだ。
お前の頭が足りないだけなら構わないけど、それで十分だと思われていたのならば見縊られたもんだ。
ただ、それが周囲の“客観的評価”ってやつなんだ。



血管が2,3本切れる音がするくらい頭にきて、
深い深い溜息をついて「仕方ねえよな」で終わる。
わあわあ喚いたってそれこそなんの意味もないから。

できることは2つあって、
1つは素直に客観的評価を受け入れて納得し、自己評価をそこに合わせること。
もう1つは意地でも抗って、自己評価が正しくて周囲の評価が過小でしかないことを結果で認めさせること。

見返すほかないのだもの。
キレイになって後悔させてやる、まさにこれ。

そのために沸々と湧き上がる怒気を静かに燃やし続けて原動力にし、怒りの炎に身を焦がさぬようあくまで冷静に頭を回し、然るべきタイミングで動いて一気に突き放す圧倒的なイメージ。



言っておいてなんだが、こんなの自己満足の世界でしかないことくらいわかっていて、僕がどうなろうと誰も知ったこっちゃない。
だけど自分にとっては大切な意味がある。

新しい仕事で素晴らしい結果を出して、お祈りメールを送りつけられた企業に「ざまあみろ」と本社の方角に中指立てたところで、先方はなんのメリットもデメリットもなく、何も変わらぬ日常の中で今日のランチはどこにするかを考えるだけだ。

でもそれでいい、それだけでいい。
いや、それがいいんだ。

欲を言えば感謝できたら最高だよね。
「あんたらのおかげでここまでできました」って。



ここまで負け犬根性丸出しのダセェ文章をよくもまあだらだらと書けたもんだと自分でも思う。
ある種とても素敵だと思います。普通の精神状態ならば、こんな衆人環視のなか白ブリーフで踊り狂うような、見せられている側ですら顔から火が吹き出るほどに赤面してしまう恥ずかしい文章を晒せるわけがないのだから。

つまりカッコよく言えば決意表明だ。
有り体に言えば、引き下がれない状況を作り自分を追い込んだのです。
あぁ、気持ちいい。



いつか、これを犯行声明文とする日が来ることを。