303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

「死にたい」がない

炊飯器が鳴るのを待っている。

「食べたい」と思った瞬間が一番「食べたい」わけであり、「食べたい」と思ってから料理を始めたらいざ食べ始めるときには飢餓状態でない限りは「食べたい」という気持ちのピークを過ぎてしまっている。
とはいえ「食べたい」と思った瞬間に食べられるように作り置きなどの準備をするほどの気もさらさらないし、作り置きしたとて温め直すなどのわずかの手間ですら最高に「食べたい」瞬間を逃している。カップラーメンの3分ですら。
となると「食べたい」と思った瞬間に食べられる条件を満たすのは、こたつの上のみかんくらいなもの。

とは言ってみたものの、せめて白米くらいはラップに包んで凍らせておいてレンジでチンして食べられるようにしておくくらいの手間はかけても良いと思えたから、いまこうして食後であるにもかかわらずふっくら炊きあがるのを待っているわけである。

言うまでもなく、晩ご飯は冷凍してあった米を使った。レンジで軽く温めてるあいだにフライパンにパスタで使うつもりで買ったバターを敷き、残っていた豚バラを悪くなる前に使うしかないため適当に切って全て炒めた。
使い切れないほど余っている長ねぎを、解凍した米とともに肉の入ったフライパンにどさっと入れ、家にある調味料を総動員、つまり味噌とめんつゆで味を整え、玉子を割って再度強火で炒めて完成。
味覇が入ってない家庭のチャーハンなどあってはならないし、エビの入ってないピラフもピラフと呼ぶわけにはいかないという原理主義的な考えがある。そのためコイツを何と呼ぶべきかはわからない。とりあえず『名状しがたき飯』とする。

この『名状しがたき飯』を食べ終え、炊飯器が私を呼ぶまでのこの時間、ふと考え始めたことについて考察を深めたいと思う。
ここまでの余談が長過ぎたのは、早炊きではなく標準でスイッチを押してしまったからである。文句があるなら炊飯器に言ってくれ。



ようやく本題だが、
さっき「死にたいと思ったことがない人の気持ちがわからない」と言われた。
自分がなぜ、死にたいと思ったことがないのか、考えたこともなかったからちょっと興味をもった。
本当にどうしてなのだろうね。死にたくなりそうな要素ならこれでもかというほどあるのに。



かつて、
「全然死ぬ気がしない」
と友人らに言ったところ爆笑を誘った。

私としては大真面目に言ったつもりであり、笑わせるつもりなど毛頭なかった。
それは私が今にでも死にそうな境遇に身を置いていることを知っている彼らには、開き直ったように悟り開いたように見えたのかもしれない。
もしくは死という誰にでも当然訪れる事実に対し、反証不可能なアンチテーゼを唱えたからなのかもしれない。

太陽がいつか寿命を迎える話、度々話すけれど自分自身もいつか死ぬことは頭ではわかっていても、他人の死を見てきていても、今まで自分の身をもって経験してきてないのだから死ぬ実感などない。あるわけがない。
だから「全然死ぬ気がしない」んだ。

死にたいと思ったことがないのは、こういう背景があるからなのかもしれない。死ぬ気がしないのだから死ねる気もしない。だから死にたいと思うことすらないのかと。



逆に私からしたら、死にたいと思ったことがないから死にたい人の気持ちはわからない。

だから的外れなことを言うかもしれないと前置きしたうえで、
死にたいと思った理由って、楽になりたい、明日が来なければ良い、存在価値がない、むしろ存在が迷惑になる、思い通りにならないならせめてもの復讐、投げやりというかどうにでもなれ、みたいなものなのがあるのかなと。
他にもあると思うし、言語化しづらい感覚的なものもたくさんあるとは簡単に想像がつく。

死にたいと思ったことがない側の私としては、例で挙げたような現在抱いているものがイコールで死に繋がらない。
仮に死にたい理由を一元的なものとしたとき、死によって解決できるもの/関係ないものが出てくる。そう考えて主な理由が死によって解決できるものであったとしても、私は死にたいとは思わない。死のうとは思わない。そもそも選択肢にない。
その理由はよくわからないけれど、他人が「死という選択もあるよ?」と選択肢を増やしてくれたとしても「なるほどねぇ」と流しそうなものだ。

と考えていくと、思考回路になるのかな。
思考のクセというか、死に馴染みがないというか。



上述したが、友人らから見ても私の置かれている状況は結構厳しいらしい。自分でもたしかにめちゃくちゃしんどいと日々感じているのだけれど、友人が私だったら少なくとも今の私のようにはいられないという。詳細な説明は避けるが条件だけで言えばまあ酷いものだと自覚している。

じゃあキャパシティの話なのかと言ったらそれもなくはなさそうだけど、なんか違う気もしなくもないというか、あまりそれで済ませたくないところがある。

「その程度で死にたいの? オレなんか云々」と抜かすダサいヤツも数多く見受けるし、受容できる多い少ないは人によって違うのは当然ある。
なんかこう「部活やめたい」と同じ感覚で考えるならそうだろうな。
それに残酷な拷問を受けたり四六時中悶え苦しむような病気を患ったりしたら、私も死なせてくれと思うだろう。死なせてくれ、と思わざるを得ない状況から死にたいと願う流れならば、単純に私が耐え難い苦痛を味わっていないだけであり、キャパの問題で片付けちゃってもいい。

でもなんか釈然としないのは、拷問や病気の「身体的な痛み」で言ってるからなのだろうな。
痛いのは嫌だもの。
私の置かれてる状況により受ける精神的な苦痛を身体の苦痛に変換し、身体的苦痛が及ぼす精神的苦痛、いわば逆輸入的な痛みを受けるシステムがあるならば、私も死を選ぶかもしれない。
だって痛いのは嫌だもの。



思考回路に近いが経験の面はどうか。

適性検査により暴かれたが、私はどうやら感情的で楽観的らしい。そんなことで私を知ったような顔されても困るのだが、そういう楽観的な今の自分を作ったのはきっとこれまでの経験にあると考えている。

昔、学生時代の話だが、あと数万足りないどうしようってなったとき、ほぼ全部どうにかなってきた。全財産(2,000円)突っ込んでジャグ連引くとかね。
どうしようってなってる最中は本当に悩み苦しみ考え過ぎて気持ち悪くなって吐いたことすらある。だけど良くも悪くもどうにかなってきてしまった。ただ先送りにしただけってこともあったけど。

なるようになる、むしろなるようにしかならない、と経験してしまったから、こんな楽観的で無責任でいられるのかもしれない。
何があってもなんとかなる。別にポジティブシンキングをしてるわけではない。どうせ、くらいの感じで見ている。

無責任、というか当事者意識が欠けてるのかもしれない。
自分の行動は神によって運命として決められている、だなんて微塵も思わないけれど、経験的になるようにしかならないと知ってしまったからなのか、なんとなく自分が主体的にどうこうするってのがない気がする。
当事者意識は欠けてるかもしれないが、自我は強いし自意識過剰だし感情的だし、自分に対しての興味関心もある。それは俯瞰しているわけでもなさそう。
立ち位置? 自分の置かれている座標に対して無頓着なのかもしれない。
よくわからなくなってきた。



逆に生きる方からは考えるのはどうだろう。

毛皮のマリーズ『ビューティフル』で志磨遼平が歌っているように、生きて死ぬための人生だと思っているところがある。
漠然として無気力気味に生きているが、元気なときは死ぬときに良い人生だったなと思いながら死ねるようにするのが人生なのかなと思っていたりもする。

近い話でいえば、人生を舞台という感覚を持っている人が多くいるらしく、自分もその感覚がある。
さっきの当事者意識にも繋がるのかもしれないが、起承転結の中で生きているのだから苦しい時期もストーリー上あって然りみたいな思いもなくはない。

ドMな演者なのかもしれない。
そういう悲惨な境遇にある自分がもがき苦しむ様も込みで人生を演じる役者として楽しんでしまっているのかもしれない。
もしくは作った舞台を見て楽しんでいるともいえる。セルフ貴族の道楽状態。

だけど実際、ネタにして人に話すことを考えるならば引き出しは多いほうが良いし、ぶっ飛んだ経験や人がしない経験を話したほうがウケるし、そういう意味では一役買っていると思っている。
破滅しようが人生をオモシロに極振りするのも悪くないのではないでしょう。
良い子はマネしないでね状態。



結局、よくわかんねえや。
わかんないし疲れたから思い付いたこと書き終えたら米をラップに包んで冷凍庫に入れていくよ。もうとっくに蒸らしまで終わっているのだから。



漠然と生きていると言ったが、同じように漠然と死にたいと言っていた人もいた。
まだ生きているから、ぶしつけに何故死ななかったのか聞いてみたら「なんとなく」と言い、生きている理由を聞いてみたら「惰性」と答えた。

面白いんだよね。私もなんとなく、惰性で生きているような節はある。


死にたい明確な理由があった人にも話を聞いた。
死にたかった要因がなくなった今思えば、当時は何を思っていたんだろう、と不思議に思ったらしい。
死ななくて良かったね、と思った。

「行き急ぐ」はよく使うけど「死に急ぐ」はないのかとググってみたら存在した。
私は個人的に死にたければ死んで良いと思う。
自殺もそんな悪いものだとも思っていない。

ただ、さっき覚えた言葉だが「死に急ぐ」ことはないんじゃないかな?とは思うところがあって。

どうせいつかはみんな死ぬ(らしい)。
ならば、それが早いか遅いかだけの違いしかなく、今日死のうが明日死のうが大差はないし構わないと。
しかし逆に言うならば、今日死ぬ必要も明日死ぬ必要も同じようにないと思うわけです。



死にたいという人に対して私は、

私は死にたい人を無理に止めたりはしない。
今日死んでもいい、明日死んだっていい。
でも同じように必ずしもすぐに死ぬ必要もない。
そして私は生きていてくれたら嬉しい。
まぁ私のエゴだ。聞き流してくれていいよ。

のように言ってきた。
死にたいと思ったことがないない人間の言葉なんて意味ないのかもしれないけれど、こんなふうに私は思ってる。



論点まとまらないうえに、何が言いたかったのかもブレブレだけれど、明日の「食べたい」のためにそろそろ米を包ませていただこうと思う。