303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

2メートル

「夜の散歩をしませんか? 2メートル離れて」


ビールを飲みながら2時間歩いたあの日、思い出したフレーズである。



京都の303号室でひたすら寝腐っていたときの話。
ひたすらTinderでスワイプだけしていた日々。その甲斐あって、良い出逢いも、しょうもないのも、酸いも甘いも色々あった。

快晴のなかオープンで天橋立までドライブしたアヤちゃん。
大雨の日に映画を観て、千葉に戻る前にレトロなカフェでもう一度会ったミレイちゃん。
同じ病を抱えていて303号室に2泊していった年上のユウカさん。
ラーメンを食べに行った流れで303号室に来たいと言い出し、口ですることだけして帰っていった子。
過去記事で書いた、仕事終わり牡蠣を一緒に食べたメンエスのアイちゃん。
見識を広めるため100人に会うことを目標にしていたサヤさん。
京都を発つ日の昼頃に1時間カフェでお茶してもっと早くに知り合いたいと思えたホテルを渡り歩く文学少女アスナちゃん。
(すべて仮名)

もしかしたら他にも会った人がいるかもしれないが、いま思い浮かんだ人は以上の通り。



「夜の散歩をしませんか? 2メートル離れて」

コピーのような、やけに語感の良いフレーズ。これはヒナちゃんのプロフィールにあった言葉。
顔写真があるわけでもない。多くを語らない簡素な自己紹介。つまり何もわからない子だった。
だけどそんなフレーズを言える人がツマラナイ人間だとは到底思えなかった。迷わず貴重なスーパーライクを送った。
ほどなくライクを返してくれた。

やり取りをしていて一番話が合って一番楽しかった。会う約束をしようとしていた。ヒナちゃんも乗り気でいてくれた。
誘い文句は一つしかないだろう。

「夜の散歩をしましょう。2メートル離れて」



都合がつかないまま、急きょ千葉に戻ることが決まった。なんとなく会うまで隠しておこうかとも考えた。でもそれよりも帰るまでになんとか予定を合わせないとと焦りが勝った。

結局、1週間後に千葉に帰ると伝えた。
なんでそんな急に帰ることを決めちゃったのかと問われた。丁寧に詳細に話した。

結論から話せば、会うことはなかった。
その代わり、にもならないが、一度だけ長電話をした。彼女はこんな私にでも真剣に向き合ってくれていたことを感じ取れた。こればかりは思い込みでもなんでもない。

話しぶりからヒナちゃんはおそらく、いろんな男の人と会っては寝ているようだった。ただ、他の男とは一線を画して私を見てくれているようだった。
他の男のように一度きりの関係、挿れたり抜いたりといった物理的な近さではなく、長く安定した精神的な距離の近い、心に寄り添えるような存在として、私を必要としていたようだった。
だからこそ、一度会っただけですぐに離れ離れになってしまうなら会わないほうがいい、と会わない選択をしたのだろう。

きっとなんとか言いくるめて会うことも、なんなら他の男と同じようになしくずし的に一夜の関係に持っていくこともできたと思う。
送ってもらった飼い猫とのツーショット写真を見るとびっくりするほど魅力的な女性だった。外見を知らないまま内面に惹かれたのに、ルックスまで良いとなれば大いに下心を認めたうえで、一層会いたいと思ってしまった。
でもそんなのはダメだと、彼女の意思を尊重した。



2メートル離れた夜の散歩。
暗闇のなか月光を跳ね返す水面が白くきらめく鴨川沿いを歩くのもよかっただろうな。きのこ帝国『クロノスタシス』でも流しながら、350mlの缶ビールを片手に。
風情なんてものはないが堀川通りを南にいって京都タワーを観るのもよかっただろうな。くるりの『さよならリグレット』か『ワンダーフォーゲル』でも流しながら、やっぱりビールを片手に。

叶わなかった2メートル離れた夜の散歩。
たまに思い出しては切なくなるんだ。
ダメだね、ありもしないことをあれこれ考えるのは。