303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

わからない

セブンスターが560円になっていた。
このあいだまでは500円だった気がする。
その前は460円だったような。
もっと前はもっと安かったし…

このままいったら1箱いくらまでいくのか。
叙々苑くらいになったらやめようかな。
普通にトラジのほうが美味しいのだけれど。



昨日、太陽が昇った。
今日も太陽が昇った。
一昨日だって同じで、これまでもずっとそう。

だから明日だって太陽は昇るだろう。
だけどいつか太陽は終わりを迎えるらしい。

信じられない話だよね。



同じように、僕は今日まで生きてきたし
きっと明日も生きるのだと思う。

でも明日を迎えられない人もいるし、
僕だっていつかは明日が来ない日が来る。
そしてそれを何故だか知っている。

信じられない話だよね



夜の暗がりの中、何か物音がした。
それが猫だとわかったときホッとする。
あの安堵感が如実に表しているのは、
人はわからないものが怖いということ。

スイッチの場所が手探りでわかる自室のように
暗闇のなかでも何があるかわかれば怖くない。

死が怖い理由は、わからないからだと思う。
生きている人は誰も経験したことがないから。

わからないものは不安で怖いんだ。
コロナはいつ収まるのかとか
就職がなかなか決まらないとか
自分このままでいいのだろうかとか

未来がわかっていたのなら、
何も怖いものはないじゃない?



知らないことのほうが多いくせに、わからないもの、説明できないものが苦手なようで。
わからないものをわからないままにしたくないから、人智の及ばぬものを神だ霊だと名前をつけてとりあえず納得するようにしている。

誰だって死んだ先のことはわからない。
宗教が乱立して救いを求めることは当然。

いま世界で70億人ぐらい生きているなら、100年後70億人くらい死んでいることになるけれど、自分のこととなるとそう簡単に割り切れるものでもない。

そう考えると他人の命と自分の命の重さには雲泥の差があるんだなと思うが、ようはみんな死を遠ざけて生きている。



どこで聞いたか忘れたけれど、
長い一本の線上に、生きている状態と死んでいる状態がある
という解釈を僕はいいなぁと思っていて。

例えるなら、
起きている状態と寝ている状態ということで、
生と死が別物としてでなく連続している。
なんか納得できるなあって。

始まりや終わりが生死にないというの、
僕はしっくりきた。



なにより、
たとえ自分が死んでも誰かの中にいる自分は生き続けるわけじゃない。
だってそうでしょ?
故人を想い出すことは誰しもあるのだから。

そう考えると死ぬときはカッコよく死にたいなあと思ってしまう。見栄っ張りは直ってないのかもしれないね。

でも毛皮のマリーズが歌ってたように、
『美しく生きて死ぬための人生』っていうのは
たしかにそうなのかもしれない。



遠ざけてはいるものの、ごく当たり前で、
特別でもなんでもないことなのだけれど
死んだ先どうなるか、わからないから怖い。


僕はそのように思います、死というものを。