303号室から愛をこめて

何が楽しくて生きているのか

ソルヴェキの森

大御所作家が書きそうな文章を書いてみる。
というテイで自分が書きたいことを容赦なく書いてみる。
下世話な話が苦手な方は他の記事を熟読し、来週までにA4用紙1枚程度にまとめること。



朝早くに家を出て日中動き回り、夜遅くに帰宅した日の風呂場で私は驚愕した。

履いていたボクサーパンツを脱ぐと縮れた毛がはらはらと落ちていく。床には黒い波線が六本。それだけならば別段何も驚くことはない。股間に当てたシャワーの水圧により排水口に流されていった十数本の陰毛が私の顔を青ざめさせたのである。

こんなに抜け落ちるものなのかと正直引いてしまった。
頭の薄い人にとっては耳が痛い話かもしれないがたしかに頭髪も相当数が毎日抜けているらしい。それに居間に落ちている毛の大半が陰毛という奇怪な事実を鑑みれば妥当なのかもしれない。

たかが陰毛が思いのほか多量に散らばっただけの話だとあしらわれるのは甚だ存外である。ただ対象が陰毛だっただけであり、目を向けていなかったもの、あえて目を背けていたものと対峙したとき、人間は程度の差はあれ誰もが陰毛に対する私と同様の反応をする。いや、せざるを得ないのだ。
衝撃の事実と直面し当惑するも、妥当性を確認し納得して前に進むのだ。



固定観念という巨悪に支配されていることすら気付かぬ間抜けなマリオネットが君らであり私である。そもそも陰毛は不要なのではないかと、誰もが一度は辿り着く当然の疑念は、何故だか無かったことにされ毛を生やしたままの日常に戻っていく。

何らかの見えない大きな力、それが固定観念という“呪い”なのだと私は考えている。
無駄な毛は処理をすれば良いという共通認識がありながら、最も無駄に思える陰毛は成り行きに任せているそのいびつな事実は、陰部には縮れ毛が生えているものだという幼き頃に植え付けられた、いや脈々と受け継がれてきた遺伝子に書き込まれている“呪い”ゆえである。

しかしながら、陰部を剃毛した状態を『パイパン』と呼ぶことは広く知られている。ともすれば陰毛を処理する文化もあるという確固たる証拠である。
この陰毛を処理する少数勢力は固定観念という巨悪に立ち向かうレジスタンスと呼べるのではないだろうか。剣を手に取るのではなく、剃刀を手に取るだけの違いしかそこにはない。平和ボケしたこの世を叩き直すべく剃刀を股間に当てがい、レジスタンスの証たる『パイパン』を我が身にも宿す日は、そう遠い未来の話ではないはずだ。



断じて私はないのだが、本の間に陰毛が挟み込まれているという都市伝説があるらしい。一体どういうことなのだろうか。

栞代わりに自ら挟み込む輩はいないと信じたい。第一、見た目からして滑稽で頼りない陰毛では挟んだとて、任意の頁を開くことなどできないに違いない。どのようにして開くというのだ。
実用性を微塵にも感じられない愚行を働く者が私と同じ人間であってはならない。あるはずがないのだ。

故意的に本の間に忍ばせたのではないとすると、偶然入り込んでしまったということになるのだがどうも納得がいかない。本を股間の下で読むことなどあり得ないからである。
人間の構造上、本を読むには目を使う必要があり目は上半身の上方に位置する顔に二つ付いている。当然のことだが、本に陰毛を紛れ込ますには人体の限界を超越した曲芸じみたことが必須となる。果たして可能であろうか。

これが仮に不可能だとしたら、本の隙間への侵入を許すには偶然上半身のどこかに陰毛が身を潜めているはずなのだ。しかしながら陰毛は股間にあるわけで、たとえば股間を触った手に陰毛が付着することは考えられても、そのような不潔な手で本に触れるだろうか。少なくとも私はそんなことをしない。
であるため、本の間に陰毛が紛れ込む謎の解明はできそうにない。

ただし、猥褻図書の類にかんしては突き出した股間で読むうえに猿のように触り倒すため、当然ながら陰毛はエロ本に嬉々として舞い落ちる。そして紙面で踊り狂うのだ。



我々は陰毛と泣き笑い、苦楽をともにして、
果てしない未来を歩んでいくのである。
その一歩は小さくとも、着実に前には進んでいるのだ。

股間にたたえる鬱蒼とした『剃るべき森』とね。